第三幕
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葛藤 |
毎日のように通いつめていた犬夜叉が、その日は一度も訪れなかった。 元々、何か約束があったわけではない。 何よりも、少しもなびかない自分に彼はよく根気が持つものだと呆れるところもあるくらいだった。 もしかしたら、何か事情があって、今夜だけは抜けられなくなっただけかもしれないし、今度こそ本当に愛想を尽かせたのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていると、唐突に目頭が熱くなる。 (それが悲しいなんて、馬鹿みたいだわ) 結局、その日は一睡も出来ずに朝を迎えたかごめは、朝餉もそこそこに庭園へ出て、池の蓮を見つめながら内心で自分に毒づいた。 本当ならば手を取りたい人の期待を毎夜裏切っているくせに、いざその人が訪れなくなると寂しいだなんて。 月夜越しでしか見ない銀の髪を見なければ、もう安心して眠れないなんて、相当の重症だとかごめは頭を抱えたくなった。 そんなかごめを、どこか具合が悪いのかと少し見当はずれな心配をしてくれる秋時に平気だと返すものの、やはり何か物足りない気持ちがかごめの胸を占めた。 記憶力が良いのは、かごめのちょっとした自慢だったが、叶わぬ、叶えてはならぬ初恋の記憶なんて忘れたほうがよかったと、かごめは少し自棄になりながら思った。 彼が、半妖であることはすぐに分かった。 今でこそ、殆んど姿を見なくなった妖怪だが、昔はよく跋扈していたらしいし、少女の姉を行方不明にした野盗の一団の首領も妖怪だったらしい。実際にかごめも、ある遣いの途中、付きの家臣が襲われ、持っていた弓で応戦したこともある。 無我夢中だったので恐怖は感じなかったが、帰ってきて城主や奥方(つまり、かごめの父母)、殊、姉には散々怒られ、それ以上に心配され、ようやく恐怖心が戻ってきて泣いてしまったこともある。 そのときは、家族総出で慰められ落ち着いたという少々情けない思い出もあるが、とにかくそのときの獣のように尖った牙や自分のような、当時10の小娘なぞ片手で捻り殺されそうな太い腕が鮮明に残り、更に今回の姉のこともあり妖怪が少し苦手になっていた(少し、で済んでいるところがかごめの肝の強さたる所以だ。普通そんな目にあえばトラウマになりかねない)。 実際、常人離れした先天的な霊力がなければ、あそこでかごめの人生は終わっていただろう。 しかし、犬夜叉がいくらそんな妖怪の血を半分引いているとはいえ、彼を恐怖する気持ちは昔からいくばかも沸いてこなかった。 それどころか、出来るなら共にいたいとも思う。 「どうしよう・・・・」 ほとんど、無意識で呟いた。まさか返事が返ってくるとは思っていなかったのだが 「何が?」 「!・・・か、あさま・・・」 驚いて振り向いた先にいた、かごめの母にあたる奥方はふわりと娘に微笑みかけながら不思議そうに首を傾げた。 気付けば人払いされていて、傍にいた筈の秋時の姿もなかった。母が、自分に大事な話があるのだということは一目瞭然だった。 かごめは居住まいを正すと、奥方に会釈して訊ねた。 「私に、何か用があるのですか?」 * * * 「・・・・・・・・・・・・犬夜叉?一個言っていいかなぁ?」 少女は、笑顔で言った。 声音も随分と猫なで声で、“それ”はまるで、少年のことを諭すかのような口調に思えたが、当の犬夜叉や、少女の性格をよく知る者はそれが余計に恐怖をかもし出しているのを知っていた。 何しろ、声も顔も限りなく優しいくせ、額には小さく青筋が立っていたし、少女が持つ盆はみしみしと悲鳴を上げていた。何よりも少女の後ろにはどす黒い邪気が充満していて、ナイス(バッド)タイミングで帰ってきた弥勒が、入ってきた瞬間、思わず身を強張らせながら二、三歩のけぞるほどだ。 知らない者が見れば、それは慈愛に満ちた聖女のような笑顔に見えただろうが、生憎とその笑顔を向けられている少年は、彼女の本性(?)を知っている。絶対零度の笑み、というか、背筋の凍る笑いだ。 何度も死ぬほどの目にあってきたことのある犬夜叉が恐れているものの三つ目のそれをまともに浴びて、見た目はともかく、中身まで平常心でいられる筈がない。 そろそろか、と予感した瞬間、ふっと珊瑚の顔から笑顔が消えた。 「・・・・仮にもあんたの下には百近い部下がいるのに当のあんたがこうだから下までたるんじゃうんだよ!鋼牙にいたっては組の中で半分本気で反抗派作ってるし!分かってんの?!そこんとこ!一日あの子に会えなかったからっていつまでもへこんでんじゃない!あんたの上下関係無視した態度は私も気に入ってるし部下もそれだからあんたのこと好きだけど少しは威厳ってもん見せなきゃ嘗められるの当たり前じゃんか!!ていうかいい加減へこむなら自分の部屋でへこめ!!!」 いくら犬夜叉が上下関係を無視しているからとはいえ、ここまできっぱりはっきり少年に言えるのは珊瑚か鋼牙くらいのものである。 弥勒も割といいたい放題だがさすがに彼らには及ばない。思わず野次馬と一緒に、珊瑚の説教に拍手すると犬夜叉は恨みがましい目で弥勒を睨んだ。それを知らん振りでごまかすと、ようやく言いたいことを言い切って少し気が晴れた風の珊瑚の肩をたたいた。 「法師様・・・戻ってたんだ」 「ええ。見事な説教が始まる少し前からね。まあ、その辺にしときましょうよ。お客さんがたのいい見世物になってますから」 言いながら、今度は未だダルそうにしている犬夜叉を引っ張って奥へ行かせると「もう終わりかい」と常連の一人が野次を飛ばし、弥勒が笑顔で返す。そこを、丁度騒ぎを聞きつけて何事かと店を覗きに来た町娘が目撃して黄色い声を上げ、珊瑚が面白くなさそうに「用がないなら出てって下さいっ」と娘たちを追い払う。 ついでに弥勒がやけに嬉しそうに珊瑚に目配せして、頬を僅かに染めた珊瑚が不機嫌そうにそっぽを向く。 ここ数年、特にこの数日では当たり前の風景だった。 「気持ちは分からんでもないが、珊瑚の言うとおり、少しは威厳を見せねば部下が不安になるだろう?」 「・・・それしきで不安になるような可愛いタマいねえだろ、うちには」 少年の自室の窓枠に腰掛けながら、弥勒は気だるげに首や肩をまわした。 普段はカタギの仕事をしている“闘牙”の部下の中、弥勒だけは本来の生業である法師として悪質な妖怪を祓ったり、霊を鎮めて回るのを仕事としている。こういうものは、物質的な見返りこそ少ないが、貴重な情報はよく入ってくるものだ。 そして、自由に動き回れる分、犬夜叉が動けないときは弥勒が部下たちの様子を見て回るのが決まりだ。 犬夜叉はここのところずっと、夜中にかごめの元へ行く為、夜行型の態勢に入っており、昼は寝ていることが多く、必然的に部下の見回りは専ら弥勒だけで行うことになる。 頭領が本拠地にいるということは皆分かっていても、顔を出さない頭領を不思議に思う奴がいても不思議ではない。 それは犬夜叉とて十分承知していたことなので返す言葉も見つからず、ついそんな冗談じみた言葉でごまかす。 そんな犬夜叉に苦笑しながら、弥勒は肩に乗せていた錫杖を柱に立てかけた。 「お前が駄目だとは私も珊瑚も・・・皆思っていない。姫君が気にかかるのも分かる。けど、その前にお前が背負っているものへのけじめってやつを見せてやれ。皆、軽口はたたいているがお前のことを心配しているんだぞ?」 「けじめ・・・」 「・・・ま、昨日のは仕方ない。“朔の日”だからな」 まだ落ち込んでいるのかとそう付け足すと、犬夜叉は黙ったまま首を横に振った。 らしくない少年の挙動に弥勒が不審を覚えるより早く、犬夜叉は口を開いた。 「やっぱ、かごめは諦めた方がいいのか・・・・?」 思ってもみなかった言葉に、弥勒は目を見開いた。 「・・・本気で、そう思っているのか?」 「本当は嫌だ。・・・でも、かごめは俺以上に大きなもん、背負ってる。かごめは、ここに必要な奴だ。それを、ここから奪ってもいいのか、って・・・・開き直ってたつもりだったけどな」 「・・・・・・・・・・・・・・。」 ずっと隠していた不安。口について言えば言うほど不安になるのは分かっている。それでも言わずにいられなかった。 この気持ちを避けようとしても、解決しなければ先へは進めない。“闘牙”の頭領として過ごすことに辛いことはなかった。 しかし、かごめの持つ運命はそんなものではない。そう考えると終わりのない螺旋に絡まり、動けなくなる。 分かっていたつもりだ。だから折り合いをつけて、少女と接触を図った。その、筈だったのだ。 俯いて、考え込んでしまった犬夜叉の耳にため息が聞こえ、ついではっきりと聞き取れたのは一言。 「馬鹿。」 「っ・・・・・!?おまっ、人が真剣に悩んでるとこっ・・・・」 「だから馬鹿って言ったんだよ馬鹿。なんなら虚け者とでも言おうか?」 もう一度、はあ、と大きく息をつくと、絶句して酸欠の魚のように口をぱくぱくとさせていた犬夜叉を見据える。 「勘違いしているようなら言うが、この件で『俺ら』が手伝ってんのは、お前が頭領だからとかじゃなくて、友人として手伝ってやりたいって思ったからだ。そうでなくともお前が連れ去りたい相手は一国の大事な姫君。もし無理やり攫うなんて言い出したらいくらなんでも一民として反対してる。だがお前はそうじゃないだろう?だから皆“協力”してるんだ。そのお前が迷ってどうする?姫様に不幸になって欲しくないから攫うんじゃなかったのか?お前は」 青年の物言いに犬夜叉は暫し呆然としていたが、ぺち、と軽く頬を叩きながら最後は優しく言った弥勒の、叩いた手を跳ね除けると不敵に笑った。 「・・・ったく。どいつもこいつも頭の俺のことぞんざいに扱いやがって・・・」 「現金なやつ」と弥勒は笑ったが、嫌な笑いではなかった。 「いーんだよ、現金で。そうでなくあ、誰がこんな馬鹿頭領の機嫌直せるんだっての」 『仲間なんざ要らねえよ。反吐が出る』 そういい捨てていた昔の少年の影はない。 素直でない闘牙の若頭に、少なくとも必要でない訳ではない、と言われた気がして弥勒は笑った。 単純に、嬉しかった。 「姫君様々、ってね。もう少し素直に言えたら合格だな」 「ふざけろばぁか」 出会った頃の刺々しい雰囲気を思い返しながら、そうして随分と一緒に行動してきたものだと、思った。 【続】 インターバルというか、冷静になって考え直してみたというか。気持ちの再確認。 一緒にいるからありがたみなんて普段は感じないけど、それでも大事なひとたち。 前 戻 次 |