第七章 【蒼い月】 静かに一人佇み、涙をこぼしている子供の隣に、少女は立った。 大丈夫だなんて、気休めにもならない言葉もかけてやれない自分が悔しくて、 少女は子供を抱きしめた。 顔も分からないのに、存在はこんなにはっきりとしているのに、子供の指先は透けて見えた。 世界に拒絶されたから生きていけないと涙をこぼす子供に、少女は自分が何もしてやれないことを知っていた。 そしてどれだけ子供を愛しいと、助けたいと願っていても、それは少女一人の手では無理なことを悟っていた。 けれど、手は差し伸べない。 少女には束縛された愛情など要らないのだ。 それが、たとえ少女の独りよがりな我侭だと言われようとも。 少女は決して、子供を助けて欲しいとは言わない。 相反する考えを持ちながら、やがて消え逝く運命にある子供に 『あいしてるわ』 そう告げて、頬にやわらかく唇を落とした。 子供の涙は、止まった。 * * * * * * * * * どうして子供が“その場所”にかごめを連れて行ったのか。 偶然ならば出来すぎているし、必然ならば不可解な点が多すぎた。 紅鈴の言う、『試す』の意味も分からなかったし、かごめの態度の意味も分からなかった。 ただ、自分はそこに行くべき、いや、行かなければならないのだということだけを、犬夜叉は感じていた。 どうしてこんなにも胸内が熱くなるのだろう。“あのとき”とは違う涙がこみ上げてきそうになる自分を、犬夜叉はよく分からないながらも感じていたのだ。逃げることも、はぐらかすこともしてはいけないのだと。 そう、感じていた。 陽も、いつのまにか沈みつつあった。 早く行かなければと急からしい気持ちになる。 きっと、あの子供はかごめに危害を加えたりはしない。 先ほど目の前で繰り広げられたやりとりで、犬夜叉はそう感じていた。 ただ、紅鈴に向けられた悲しそうな涙が、過去の“何か”とだぶり、犬夜叉の罪悪感を突いていた。 ――――本当は、何となくだが。 自分は、気付いているのだ。子供の正体に。 輪郭こそ掴めないほどに、曖昧だが、確かに犬夜叉は、あの子供を知っている気がした。 理屈などでは推し量れない、不確かだけれど、確かにそこにあるもの。 それは、まさにあの紅鈴と名乗った子供そのもののような、危うさを持っていた。 やがて、目指していた場所を見付けて犬夜叉は速度を落とした。 ふわり、 何十年経っても遜色のないそこは、まるで見えない何かに護られているようだった。 人の住まわない、大きな屋敷には、旅人が寝床として使ったり、野盗が根城として荒らしたりされることはもはや必然であっただろうに、焼けて炭となった一部を除いても、蜘蛛の巣一つない屋敷は、不気味というよりはむしろ神聖さすら感じられた。 ・・・・・それとも、それは単なる犬夜叉の贔屓の目のせいなのだろうか。 こんな形で、『この場所』へ帰ってくるとは思わなかった犬夜叉は、思わず眉根の皺を増やした。 (・・・・・中庭か) ここまで来れば、かごめの匂いも鮮明だ。間違う筈がない。 一度跳躍して、壁を飛び越えれば、すぐにかごめと、傍に佇む紅鈴の姿が見えた。 「犬夜叉」 「かごめ。・・・・迎えに来た」 そう言って、犬夜叉はかごめから紅鈴に視線を移した。 此処まで連れて来たのだ。ただでは帰してくれないだろう。 そう、踏んでいたのに。 紅鈴は、微笑んでいた。微笑んだままだった。 犬夜叉は、毒気を抜かれた気分だった。 「・・・・犬夜叉は、持ってたのね。私たちが、一番ほしかったものを」 「・・・・何の話だ?」 「私の口からは言えない。かごめも、言う気がないのなら、犬夜叉は知らない方がいい」 結局最後まで、中枢部分からは蚊帳の外にされたままかと犬夜叉は少し面白く無さそうに眉を顰めた。 それでも、もう紅鈴に敵意を向けられたとしても、応戦する気も起きない。 不思議と、落ち着く空間だと、犬夜叉は思った。 「まさか、こんな形で此処に戻って来るとは思わなかった」 「『戻って』?」 「・・・・・おふくろの実家」 その言葉に、かごめは目を丸くする。 そして、感慨深そうに見回して、「此処が・・・・」と呟いた。 紅鈴は、そっと犬夜叉に近付くと、その手を握った。 細く頼りない指先は、“何処かの誰か”にそっくりだと思った。 「私たちは、ずっと苦しかったの。世界は私たちを拒んだ。私たちはただ、愛が欲しかっただけなのに。 犬夜叉は、ちゃんと持ってたのね。だから、嬉しい。もう苦しくないの。・・・・消えるのだって、怖くない」 「お、おい」 消えるという言葉に、紅鈴の微笑みの意味を悟り、犬夜叉は慌てた。 かごめの表情を見たけれど、かごめは寂しそうな笑いを浮かべるだけで、何も言わない。 スゥ、と。紅鈴の指先が透ける。子供の言う、『消える』という現象が始まったのだ。 「紅鈴・・・」 「私たちは、生きられない。だから、生きてる人たちを憎んだ。憎んでも、気付いてもらえない。 あなたたちみたいな人にしか、気付いてもらえない。それはとてもさみしかったの」 「・・・・・」 かごめは二人に近付き、目線を紅鈴のところまで落とすようにしゃがみ込んだ。 一語一句と、聞き逃さないようにしているようだった。 「我侭言って、ごめんなさい。かごめだって苦しかったよね。他の人たちだって苦しかったよね。」 「ううん。私だって、何もしてあげられなくてごめんね。愛してる」 犬夜叉はぎょっとした。突然かごめの口から出た言葉は、考えれば普通だろうが、あまりにも衝撃的だったのだ。 紅鈴は、その言葉に嬉しそうに笑った。 ちりん、 音の出なかった、髪紐の鈴の音色が広がる。 「ねぇ、紅鈴。私、“あなた”に名前をあげたい。」 かごめの言葉に、紅鈴は一瞬、あどけない表情で首を傾げたあと、一気に目を見開いた。 「私、に?」 「うん。・・・・“あなたたち”じゃなくて、ごめんね。どうしても、“紅鈴に”あげたいの」 そう言うと、子供はひどく興奮した様子で、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、紅潮した頬を晒した。 そんな姿に、かごめは笑いかけたあと、犬夜叉の方に少しだけ申し訳無さそうな表情を向けた。 「ごめんね。紅鈴の名前、私が決めるね」 「・・・?って、言われても俺にはおまえらが何言ってんのかさっぱりわかんねえよ」 彼なりの許容の言葉なのだろう。 くすりと笑うとかごめは紅鈴を抱き上げた。 「んっと・・・・じゃあ、『鈴音(すずね)』は、どう?」 「うん・・・・・・うん!」 鈴音の名を与えられた子供はこくこくと何度も頷いた。 その様子がひどく微笑ましくて、犬夜叉も思わず苦笑を洩らす。 「えへへ・・・・名前、貰っちゃった!“私たち”じゃなくて、“私”だけの名前・・・!」 いいなあ、 私も欲しいよ ぼくも ぼくも ざわざわと、風に流れていくつもの“声”が聞こえて、犬夜叉とかごめは思わず辺りを見回した。 しかし、結局気配すらないそれを見つけることなど出来なかった。 やがて、鈴音は輪郭すらぼやけて、夜の帳が落ちた風景に同化し始める。 「鈴音・・・!」 「ありがとう、かごめ。あたし、多分今までの子の中で一番恵まれてる」 「ッ・・・・・・、きっと・・・・・きっと、また逢いたい!」 「うん。私も、かごめと犬夜叉に逢いたいよ」 「・・・・・・ぁ」 ふわりと鈴音は微笑んだ。とても綺麗な微笑みだった。 「さようなら、私の・・・・・――――」 やがて子供はあるべき姿へと還って行った。 不自然な命が生きるには辛い世界から、やっと解放されたのだ。 鈴音を抱えていた手を見つめていたかごめの頬に、犬夜叉はそっと触れた。 指先が濡れていることに気付いて、かごめはやっと、自分が泣いていることに気が着いた。 「やだな・・・・・何か最近、泣いてばっかだ」 ごしごしと目を擦るかごめが見ていられなくて、犬夜叉は少女の肩を引くと懐の中に収めた。 何故、かごめが泣いているのか。そもそもあの子供は一体誰だったのか。 それすらも分からない犬夜叉は、かごめにどう返してやればいいのか分からず、もどかしさを抱いたままかごめをぎゅっと抱きしめた。少しでもかごめの悲しみが減ればいいのにと願うのに、どうすることも出来ない自分が歯がゆい。 「あの子に、私何もしてあげられなかった・・・・」 「そんなこと、ねぇだろ」 「え?」 「・・・・名前、やっただろ。あいつ、めちゃくちゃ喜んでたじゃねぇか。」 少なくとも、あいつが最後まで本当の笑顔で笑っていられたのは、お前のお陰だろ。 そう言ってやると、かごめは自分から頭を犬夜叉の胸元に摺り寄せて、小さくありがとう、と呟いた。 月が、昇っていた。 綺麗な満月が、僅かに青く光っていた。 【続】 ここまで読んで頂きありがとうございました!・・・・何かやっぱ駄目だね。 グダグダになってもいいからもうちょっと話を掘り進めた方が良かったかもとか今更後悔しております。 でも本編で(紅鈴)鈴音の正体を明かしたくはなかったんです。名前の意味とかは次で出せたらいいと思ってる。 あとはちょっとエピローグ続いて終わりです。わんこがひどい人にならないように私も必死なんです・・・! 補足:蒼い月(ブルームーン)は『在りえないもの』の象徴です。ちょっとこの頁だけ背景拘ってみた! (06.10.29) 前章 BACK 次章 |