第二章 【盆の上の杯】 「え?」 誰かの“声”に反射的に振り向いたかごめは、しかし誰もいないことを確認して首を傾げた。 ほんの一瞬だけ、何か赤味がかった靄のようなものが視線を過ぎった気がしたが、それも本当に僅かしか見えずに終わったので気のせいと言えなくもない。用心するに越したことはないのだろう。 しかし少なくとも、気配に殺気はなかった。今もまた、何かの気配がするわけでもない。 (何だったんだろう、今の・・・・・) ふと、一瞬浮かんだのは悲しみだった。 先ほど、犬夜叉と桔梗の関係に対して抱えたものとは違う、もっと根本を揺るがすような悲しみだった。 そう、それはまさに己の存在を揺るがすような、深い悲しみ。 ・・・・一瞬だったので、はっきりとそうと言い切ることは出来ないほど、曖昧だったけれども。 「かごめ?」 急にかけられた言葉にかごめははっとする。 随分と長い間、考え込んでいたらしい。目の前にはいつの間にか犬夜叉の姿があった。 顔を上げて、ようやく自分が俯いていたことをかごめは自覚した。 そしてふと顔を上げて、琥珀色と目が合った瞬間、犬夜叉は僅かにぎょっと目を見開いた。 そして唐突に慌てふためくのでかごめはわけが分からずに首を傾げた。 「犬夜叉、七宝ちゃん置いて来ちゃったの?・・・まあ雲母がいるから大丈夫だろうけど」 「いや、んなことどうでもいいけどお前」 どうでもいいって酷いじゃない、と言い掛けたところで、視界が唐突に歪んで世界がぼやけた。 何だろう、と思う前にぱたりと胸元から小さな音がした。何だろうと視線を向けると濡れていた。 一粒の雨が落ちたような痕に、あんなに天気が良かったのに雨でも降ったのだろうかと顔を上げようとしたところで、犬夜叉の手がかごめの頬を拭った。濡れた感触に気付いて、自分が泣いていることにそこで初めて気がついた。どうして気付かなかったのだろうと不思議になるくらいに後から後から毀れる雫に、拭った犬夜叉もどうしたものかと明らかな困惑を浮かべていた。 もしかしたら、昨夜の出来事を皆に知られていることに気付いたのかもしれない。 気付いて、かごめの今流している涙は自分のせいなのだと思っているのかもしれない。 しかしかごめには、『これ』がそうだとも、そうでないとも言えなかった。分からなかった。 だって本当に、何故今自分が泣いているのか分からなかったのだ。 ただ、指の先がじんじんとして、胸の奥が切なく絞まった気がした。 「か、かごめ」 「・・・・ごめ、平気。何で泣いてんのかな、私」 ぐしぐしと無理やり目を擦って泣き止んでも、後から襲ってくる切なさに眉に皺が寄るのは止められない。 困惑したままの犬夜叉を無理やり促して元の場所へ戻ろう、と半ば強引に手を取った。 何が原因かは分からないけれど、これ以上この場所にいたくない、とかごめは本能的に思った。 “似ている”と感じた。 あの、犬夜叉が来るより少し前に一瞬だけ感じた、妙な息苦しさを伴う悲しみと。 ふわり。 “赤い靄”が、遠のいていく姿に歓喜の声を上げた。 ようやく見つけた贄の娘の悲しみの涙に、共感の感情に、高揚したように、“笑み”を形作った。 一つだけの靄からいくつもの声が聞こえる。 『ねえ、見た?』 『見た』『見たよ』 『贄は悲しんでくれた』 『泣いてくれた』 『見た』『見れた』『見た』 それはいくつもの声でもあり、木々のさざめきでもあった。 一つの声が、それを制するように凛とした声で場を鎮める。 『あの贄の娘なら、私の気持ちを分かってくれる』 それに同調するように他の“声”達も一斉に言う。 『きっと私の想いを叶えてくれる』 だって、あの娘は。 「で、折角のお膳立ても全部台無しにした上にかごめ様を泣かせて終わったと。・・・馬鹿かお前は」 「うるせぇよ余計なお世話だ!」 自覚があるのか、妙に歯切れの悪い少年の言葉に、弥勒は深く深く溜息をついた。 少年が器用な性分をしていないのは重々承知のつもりだったが、まさかここまでとは思っていなかった。 溜息の中にそんな思いが隠れているのに気付いた犬夜叉は決まり悪そうにそっぽを向くしか出来ない。 あの後、出発の時間になって集合した途端にかごめの瞳に涙の痕跡を発見して、同時に全員から冷たい視線を貰った犬夜叉に、事情に気付いたかごめが「犬夜叉のせいじゃないの!」と精一杯のフォローをしたが、何だかんだと言いながらもかごめが犬夜叉に対して(特に、桔梗が絡んだときは特にだ)寛容で甘いことは知っていたので、逆にそれが余計に助長するような結果を招いてしまった。 ので、少なくとも犬夜叉とかごめ以外には、かごめの涙の理由は犬夜叉だという認識が一層強くされた。 そんな訳で、近くに運良く見つけられた小さな集落の、現在は使われていないという一軒の小屋を借りて休んでいるときに、丁度かごめと珊瑚が七宝と雲母を連れて夕餉のお裾分けを恵んでくれると言う長の家へ行っている間に暇になった弥勒に突き詰められていた。(ちなみに見返りは弥勒が開運の札とやらを家々に渡すことだった。仲間内からしてみれば“胡散臭い”の一言に尽きるのだが。) 「・・・・お前の気持ちがどうであれ、慰めるくらいまともに出来ないのかお前は」 「・・・・・・・・」 ぐ、と詰まる言葉に一応の努力の陰が見え隠れしていたので弥勒は、先ほどとはまた違う息を小さく吐き出すと言及するのを諦めた。そもそもこれは第三者が口を挟んでいい問題ではないのは弥勒自身がよく分かっていることなのだ。 ただ、どうしようもなく不器用な様子が少しもどかしいと、余計な世話な思考は過ぎるが。 そうこうしている内に、入り口の御簾がかさりと開く。 「ただいまー・・・・・何してんの?二人共」 お互いにらみ合いのような体勢で硬直していたので、真っ先に入ってきたかごめがきょとんと首を傾げた。 追って入ってきた珊瑚の反応も似たようなものだ。大体予想はついていたのか、こちらの反応はかごめよりやや薄いが。七宝は、小さな手で借りて来たらしい器を持ったまま、やれやれとばかりに首を振っている。こちらもある程度事情を察したらしい。 その態度が癪に障った犬夜叉が恨めしげな表情でむすっと弥勒を見返すが、それに気付かないふりをして弥勒は帰って来た少女らを労いつつ、「じゃあ食べましょうか」とあっさりと話題を変えた。 普段ならば、「無視するんじゃねぇ!」とでも言って噛み付いてくる場面だろうが、犬夜叉もあまり触れられたくない話題だった為、特に文句も出てこずにささやかな夕餉にありつくのだった。 * * * ひやりと冷たい風が流れ込んで、かごめはふと僅かに目を開いた。 いつもならば深く眠りについていて、こんな些細な変化に気付く訳は無い。 それでも気付いたのはきっと、昨夜と“同じだから”なのだと思った。 小屋の奥で動く気配にかごめは溜息をつきたくなる。仕方が無い、そう思うのだけれど。 かごめは目を閉じて、眠ったふりを再開する。こんなものではきっと珊瑚達すら騙すことは出来ないだろうけれど、今の少年には十分だと分かっていた。だって昨日はすぐに戻ってきた。 僅かな変化をもたらせた“気配”を追って、森の中に入っていった少年がすぐに戻ってきたということは、件の巫女に会えなかったということだ。二日続けて、近くに気配を感じるなんてことは今まで一度もなかったけれど、それでもこれは確かに“彼女”の気配。 ひゅぅ、と風を切る音と共に青白く長い尾が小屋の隙間から見えたので、そういうことなのだろう。 案の定、静かに立ち上がり、御簾を上げかけた少年は僅かにこちらに視線を向け、躊躇の空気を見せたが幾ばくかして、やはり御簾をくぐって出て行った。犬夜叉は犬夜叉なりに、この旅に焦燥のようなものを感じているのだろう。ここ暫くは特に何の音沙汰もなく平和な旅が続いている。一刻も早く、奈落の首を討ちたい犬夜叉にとって、“彼女”と会うのは無事を確かめるのと同時に何よりもの情報交換のためでもあるのだと。 かごめはその二つの理由を理解している。だから何も言わない。気付かないことにしているのだ。 仲間達もそれに付き合って、気付かないフリをしてくれている。 言葉には出さないが、それにかごめは感謝していた。 理解していて、それでも時々折り合いのつかない自分にかごめは自嘲を浮かべたくなる。 どうしたって自分に選択出来る道なんて限られている。今以上を望んではいけないと、思っているのに。 (あ、駄目だ) ぎゅう、と胸を抑える。 一緒のシュラフにもぐりこんでいる七宝がころりと寝返りを打って、はっとする。 このままではこの小さな子供の眠りすら邪魔してしまう。 むくりと起き上がって、まだ涙はこぼれていない目元に手を当てる。 僅かに熱を持っているけれど、我慢出来ないものでもない。 ・・・・・この痛みには慣れている筈だ。慣れなければならないのだ。自分の為に、彼の為に。 衝動を吐き出す前にとかごめはシュラフから抜け出すと、犬夜叉を追いかけるように外へ飛び出た。 慌てた弥勒と珊瑚の声が、かごめを追うようにかけられた気がしたが、内心でそっと謝るとかごめはそのまま、特に何の考えも無く走り続けた。何かに誘われているような気もしたし、自分の気を鎮める為にも思えた。 何だか、自分の行動が自分で分からない。 今日の昼間からずっとそうだと、かごめは思った。 正確には――― 突然、目の前に感じた気配にかごめは俯いていた顔を上げた。 同時に、どうしてこんなに無用心に、何も持たずに出てきてしまったのだろうと自分の不用意さを憎む。 もし妖怪、いや自分に害なす者ならば、素手の自分がかなう筈がない。 反射的に踵を返し掛けてやがて、目の前に在る“赤い靄”にかごめは目を見開いた。 それは、昼間に一瞬だけ見たものと同じもので、あれは見間違いではなかったのだという驚きも含んだもの。 やがて存在が不透明だったそれは、人の、7,8歳ほどの少女を形作った。 警戒することも忘れてかごめは呆然と立ち尽くした。 この場合は、かごめという少女が悪意や敵意に敏感に反応することがかえって災いした。 悪意のない存在に、本来物怖じしない少女はすっかり警戒することを怠ったのだ。 「・・・・・巫女」 「え?」 「あなた、巫女?」 突然訊ねられたことにかごめはどう答えていいのかと迷う。 巫女の力を持つ、という意味では確かに自分は巫女なのだろう。しかし、実際に自分に巫女の自覚はないし、巫女と呼ばれたことはあれど、それは周りが勝手に言っていただけのことなのだ。 「そ、そうね・・・・巫女、のつもりはないけど」 どうも曖昧な答えを返してしまったが、突然現れた存在に、自分のそんな複雑な心境を語っても仕方が無いかという想いがかごめにはあった。力があるのだから、知らない者から見れば確かに自分は巫女なのだろう。 かごめの答えに子供はにこりと微笑む。 穢れを知らない、純粋な笑み。率直に自分を慕う瞳に、かごめも思わず笑い返す。 「巫女様、お名前は何ていう?」 「え・・・・えっと、かごめよ。貴方は?」 人間、ではないのだろうけれど自我はきちんとある。 無差別に人を襲う妖怪とも思えないし、かといって精霊とも思えない。彼らはひどく人に無関心なものが多い。 「あたしは、紅鈴【こうりん】。かごめは、あたしが見えるのね?」 「見える、って」 ということは、幽霊か何かなのだろうか。 確かに、幽霊と呼ばれる存在にはかごめも出会ったことはある。 しかし、このように幼い容姿をした子供は大抵、タタリモッケが彷徨う魂をきちんとあの世へ連れて行く為に引き連れている筈だ。一人きりで行動していれば、幼く自我の薄い子供の魂はいずれ生ある者を妬み、悪霊へと変わる恐れがある。そうならないように、引き連れている筈の妖怪は何処へ? 困惑するかごめをよそに、子供はくすくすと笑って、かごめの手をそっと取る。 実体として確かにかごめの手を掴んでいるのに、ぬくもりがない。 滑らかな硝子細工に触れられているような感触だ。 「あたしは、“あたしたち”は、稀有な存在。本当は、存在しちゃいけない者。邪な力を持つものにも、清浄な力も持つものにも、その狭間のものにも否定された存在。だからあたしは、あなたが必要なの」 「紅鈴、ちゃん?」 その、凡そ子供らしからぬ物言いにかごめは僅かに眉を顰める。 どうも様子がおかしい。殺意や悪意はない。けれど何か、試すような視線を向けられている。 そんな気がした。 決して不快ではないのに、何処か頭の中で警鐘が鳴っていた。 この子の手を振り払って何処かに逃げなくては。ここにいてはいけない。 そう思うのに、子供とは思えない強さで握られた手は少しの力ではちっとも離れない。 離して、とかごめが言うよりも早く、“何か”がかごめの中に入り込んでくる。 それが子供の手の先から流れ込んでくることにはすぐに気付いたけれど、かごめは成す術も無くただ呆然とそれを受け入れた。いや、受け入れざるを得なかった。 (これ、) かごめの瞳に驚愕が浮かんだことに、紅鈴と名乗った少女は嬉しそうに微笑んだ。 “それ”をかごめが受け取ったことに、ただただ純粋に喜んでいるのだ。 それがかごめにとってどれほどの衝撃を与えるか、なんて分かる筈もないのだ。 だって、紅鈴は、本当に、ただ純粋な『子供』なのだから。 かごめは、唐突に理解した。 昼間の涙の理由。自分の、何かに“呼ばれている”ような感覚の正体。紅鈴の本性。彼女の、願いが。 「ねえかごめ。かごめの魂、綺麗で大きいよね。いいなぁ、私もほしい」 何でもないものを強請るように紅鈴はにこりと笑って言う。 かごめは何も言えなかった。肯定することも否定することも、かごめには出来なかった。 ただぼんやりと意識が遠のいていく中で、頬を撫でた小さな手を拒むことだけは、かごめには出来なかった。 だって、この子は。 【続】 ええと最初に謝っておこうか。 第一章出した後、プロット何処か行ったついでに開き直って設定を当初没にしていた方へ移行します。 ので、それに伴い序章、および第一章での話と若干のズレが生じる可能性がありますのでその辺ご了承下さい。っていうか私が素直に全部書き直したらいい話だよね。ごめん。やる気と根気があれば書き直します(・・・・) あと、設定変更した為、話の主軸は犬かごです。犬桔というより桔かご入ってきたので(笑)その辺もご容赦願います。私らしいっちゃ私らしいですね。ごめんよ犬がヘタレだから(責任転嫁)orz ていうか、ある意味犬桔派にも犬かご派にも酷い話だこれ。うわあ本気ですいませんorz (06.10.7記) (06.10.11UP) 前章 BACK 次章 |