序章 【風葬】 ぐちゅぐちゅと、嫌な音を立てて肉を貪る獣がいた。 額にぎょろりとした目玉がついていて、それが普通の獣ではないことを知らせていた。 “それ”が、ばきりと鈍い音を立てて、何かを噛み砕いた。 血肉のこびり付く白いものは本来、そう簡単に砕けるものではなかったが、優れた“それ”の歯は、何の苦労もなく噛み砕いてしまった。 獣が獲物に貪りつくたびに、泥まみれだったがすべらかな女の手がびくんと、まるでまだ意志をもつかのように揺れた。 しかし既に、肉塊と成り果てた人間は、辛うじて残る右半分の顔を恐怖と絶望で引き攣らせて絶命していた。 腸【はらわた】が引きずり出され、女の中は殆ど空洞に近かった。 その近くを、光がうろうろとしていた。 物の怪や、常人には見えぬがそれは女の魂だった。 もう原型すら分からぬほどに食い散らされた自分の体恋しさに、女は逝くこともできずにとどまったのだ。 見る者が見れば、女の人魂はさめざめと泣いているのが分かっただろう。しかし、ここに在るのは妖しの獣と、肉塊に成り果てた女の体のみだ。 同情する者も、できる者もいなかった。このまま現世にとどまれば、いずれ浮遊霊となってしまう運命にあることを女は知りもしなかった。たとえ知っていたところで、人の魂を喰らう妖しなど、いくらでもいる。 喰われて終わりとはかくも無残な結末だが、女にはすでにその末路以外に道はなかったのだ。 そして、喰われたが最期、転生すらも適わないことも当然ながら、普通の小作農を営む両親を持つ、ごく普通の家系へ生まれた女が、そのような学を学んでいる筈もない。だから女は自分の末路を知り得なかった。 女の魂の運命は、逝くことを拒絶した瞬間から決まっていた。 しかしふと、女は泣き止み、顔をあげた。誰かに呼ばれている気がしたのだ。 その瞬間、不思議と、それまで執着していた自分の肉体が、最初から其処へ存在していなかったかのように意識の外の“物”と化し、女にとって歯牙にもかけないものとなった。女は立ち上がると、忌まわしい場所から逃げるように駆け出した――もっとも、すでにこの世に本体持たぬ存在になった女には、立ち上がるということも、駆け出すということも、感覚からの表現に過ぎなかったが。 女は無我夢中で走り続けた。 山ひとつ越えたというのに、息切れも起こさぬことに、ひとつの疑問も持たずに、白み始める朝陽に目が焼けないことも何故か当然のように受け止めて、ひたすらに走り続けた。 自分の向かう先にある何かに、一刻も早く近付きたい一心だった。 やがて、しばらくすると前から青白い何かがやってきて、女は急に足を止めた。自分を喰らう為に来た妖怪かもしれないと恐れたのだ。 最初は、光しか判断できなかったものはだんだんと、蛇のような胴、虫のような顔を持ったものと分かり、そして最後に、妖怪が自分の四肢を掴んできたとき、それが先程から自分を呼んでいたものの遣いだと分かり、女は僅かに口元を綻ばせた。安堵して力を抜くと、微かな浮遊感とともに自分が妖怪に運ばれていることを実感した。 途中で、見るもおぞましい姿の妖怪を見たが、それらは全て、一度はこちらに視線をくれるが、やがて興ざめしたように視線を戻した。こちらを見る、と云っても、それらの視線は、厳密に言えば自分ではなく、自分を運ぶ蛇のような胴の妖怪へ向けられたものだった。 初めはてっきり、自分が見られていると勘違いしてしまったものだから、咄嗟に喉から潰れた悲鳴を上げ、必死に逃げ惑おうとしたが、そうでないと分かった今ではすっかり蛇のような妖怪に身を任せきっていた。 すると、ふと視線の先に緋色の、深い森の色には似つかぬ色を見つけて、女は訝しんだ。 そっと注意をそちらへやって、女は息を呑んだ。緋色の、水干の衣を纏っていたのは、自分より二つほど幼く見える少年だった。それも、普通の成【なり】ではない。 丑三つ時と呼ばれ、決して外へ出てはならぬと言われる刻限に、外へいることからまず不審であったが、何よりも、緩やかに風に吹かれる髪は見事なまでの銀で、動揺を浮かべた瞳は琥珀色だったのだ。口元から僅かにのぞく牙や鋭い爪、白銀からのぞく獣の耳を見ずとも、彼が妖しの類であることは十分に理解った。 しかし少年は、妖怪にしては凡そそれらしくない表情で――有体に言えば、人間そのものの表情で、こちらを見つめていた。 女な少年の表情の中に、動揺と困惑、そして切なさが入り混じっていることに気付き、不思議に思った。妖怪が、彼の前を通り過ぎたあとも、彼はじっと、同じ表情でこちらを見つめ続けていた。追いかけてくるようなことはなかったが、女はひどく居た堪れない気分に襲われ、これ以上はもう見ない方がいいと、視界を塞いだ。 ―――風に流れる、少年のものと思われる、「桔梗・・・」という呟きは、無意識のうちに全感覚を閉じてしまった女に聞かれることはなかった。 次に女が目をあけると、眼の前には美しい巫女がいた。しかし、彼女はすでにこの世に存在しない者だということは、最早同属の女にとって悟ることは容易かった。 巫女はまっすぐ、女と目線を合わせると、気の毒そうに女の頬を撫でた。 「先刻・・・・肉体から離れたばかりなのか?この世に未練を残しているだろうに。・・・私と、同じような目に遭ってしまったのだな」 違う、貴女には体がちゃんとあると言いかけてはたと気付いた。巫女の躯が紛い物であることに。 彼女は、苦笑とも自嘲ともとれる笑みを浮かべて、そっと女から距離をあけた。 「私は訳あって、死人になった今も現世にとどまっている。――出来れば、協力してもらいたい。私が現世で動く為の糧となってほしい。代わりに、私が現世を離れるときには、必ず貴方を迷うことなくあの世へ導こう」 巫女の淀みない言葉に、女は安堵し、感激に身を震わせた。 行く先分からぬ自分に、彼女は標【しるべ】となってくれると言うのだ。その為ならば――救いの手を差し伸べてくれる巫女の為ならば、自分に出来ることをしてやりたいと思った。さっと差し伸べられた彼女の手を取ると、女の魂は、彼女の“中”に引きずり込まれてゆく。すぐに気付いたが、女は抵抗せずに、巫女に魂を、自分の命運を委ねて、深い眠りに落ちた――――――。 【続】 桔梗様、人間の法師か巫女に頼めばいいのに丸め込んで。 ・・・・悪徳商法みたい(シリアスムードぶち壊すな) (H17.1.1) BACK 次章 |