〈2〉








―――誰かに呼ばれた気がした。

誰に?


それすらも不明瞭なまま、疑問はやがて霧散する。

“彼”には、今、生きている知り合い、というものがほんの一握りしかいない。

数年前、とあることをきっかけに、本来人間の血液、平たく言えば生気を糧に生きている種族の末裔であるにも関わらず、“彼”は人を襲うことをやめた。

人間の使用する旧暦で言う所の300年近くを生きてきて、それでも同族からしてみればまだ若造の域に入る“彼”は、それでも最高位とされる同族と渡り合える程の力を有し、同族からも畏怖された存在であった。

――同族、所謂、“ヴァンパイア”と呼ばれる物の怪。

彼らが持つ魔力は甚大で計り知れないという一方で、十字架や聖水、葫【にんにく】や陽光に弱く、夜間のみしか活動しない、というのが、人間界で語られているヴァンパイアの一般的な見解であるが、実際には相違が多い。

個人差、というものもあるのだろう。

その他に挙げられる、ヴァンパイアが苦手とするものは、焔であったり流水であったりと語りは様々であるが、たとえば十字架にしても、それそのものが霊的な力を込めやすいから聖者が悪しき力を封印する武器として使用していることが起因されていることは想像に難くない。

そして、陽光や焔が苦手というのは、嘘ではない。

ただ、それらはすべてヴァンパイアから見れば滅びる“きっかけ”でしかない。

何とか凌ごうと思えば出来ないこともない。名に背負う、最強の魔物は伊達ではない。

と、まあ長々とした説明はいいとして、その“彼”が先程から嫌な予感をさせている理由。

元々、最高位に限りなく近い“彼”が本気で食事なしで生きようと思えば、無駄な行動を一切せずに過ごすのならば裕に50年は平然としていられるだろう。実際“彼”もそのつもりでこの数年間を食事なしで生きてきた。

(いや、違うな)

くく、と魔物は笑う。苦笑にも近かった。

(『あの子』が美味しすぎたから、他のものでは物足りないんだ)


あの子、というのは、彼が数年前に出会った最後の『食事』をした子供のこと。
そもそも、彼の誓約を呑んだからこそ、こうして食事をせずに静かに生きているのだ。

あの子。

そう、何故今まで思い出さずにいられただろう、あの子のことを。


ちりちりと焼け付くかのような焦燥感が、彼に関することで生じていることは、自覚すると同時に悟る。

「・・・・・あの子は、」


言葉を吐き出すと同時に、ゆっくりと時間が動き始める。
何となく、このまま時を止めていてはいけないという危機感が“彼”の胸の中にあった。


呼んでいる気がした。あの子が、誰かを。

自分でないとしても、少なくとも誰かの助けを求めている気がした。


気がした、だけで動くとはなんと愚かと、誰かが見ていれば思うかもしれないが、“彼”にはその感覚に十分の確信を抱いていた。

「・・・生憎、いいことでも悪いことでも、私の第六感は外れたことがないのだよ、エドワード」

懐かしい響きだ。随分と声に出していなかったように思う。


実際、その名が彼の口から出たのは、三年前、彼の現世における唯一の親友と呼べる男の前でだったので、無理もない。

たとえ彼が何百年を生きたヴァンパイアであっても、それは致し方ない。

時の流れが人間とヴァンパイアでは圧倒的に違いすぎる。
こちらが眠りこけている間に人間は仔が大人へ成人するほどには時間が経つ。

むしろ、意図的に己の時間を止めて“影”に身を置いたヴァンパイアとしては、“彼”の目覚めの周期は驚く程に早いものだ。

「さて」

感じる焦燥感とは裏腹に、やけにのんびりした呟きと共に“彼”は立ち上がった(とはいえ、異空間とされる此処に足元だの、肉体だのという観念は皆無なのであくまで感覚的に表現して、の話だ)。

じっと神経を研ぎ澄ませて、エドワードの気配を辿る。数年間腐らせていた筈の感覚は、案外にもあっさりと彼の気配を見つけた。元々存在感のある子供だったのだ。

ただ、今はひどく感情が乱れているようだった。近くにある、もう一つの似通った気配も同様だ。

(何かに巻き込まれた?)


そして、次の瞬間感じるのは、エドワードの感じる死の感覚。









――――――――――・・・・!











理性で判断するよりも早く、体が動いた。

空間を強制的に『その場所』へ繋げると、身を乗り出すかのように空間から外へ出る。




ここまで焦ったのは、何百年ぶりか、などと自覚する暇もないまま。













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