聖夜
ぴーっぴーっ。
「あ。」
停止を告げる電子音を聞きつけて、かごめは果物ナイフを置いた。
すぐさま近くに準備してあった鍋掴みをつけてオーブンを開く。
ふんわりと匂う甘いケーキの匂いにかごめは満足そうに笑って頷いた。
「まぁまぁ、成功ね!」
竹串を刺して焼き加減を確かめて熱が通りきっていることを確認すると、ケーキクーラーの上に型ごとケーキを載せた。鍋掴みを片付けると包丁を取り出して、型に合わせて刃を入れる。焼きたて独特の香ばしい音を立てながら、綺麗に型から分離を果たしたケーキを皿の上に置き換えてクーラーの上に放置する。
ちらりと少しだけ時間を確認して、かごめは肘まで落ちかけた裾を捲り直して、先程まで格闘していた果物に向き直った。皮を剥き切って塩水に浸していた林檎を掬い上げると中心からぱっくりと包丁を入れる。普段は所謂“りんごうさぎ”を作っているから種を取る作業は楽だが今回はあくまで装飾が目的だ。
半分だけは普段どおりに、食べやすい一口サイズまで切って、種を出して薄くスライスして、既に作業終了している果実を剥き出しにしたオレンジの横へ並べた。それが終われば休む間もなく、今度は程よく熟れた色合いの苺をさっと水洗いして葉を取り去った。半分はさきほどの林檎と同じく、適当な大きさにスライスして、小皿によそう。中途半端に余った先端は、捨てるのも勿体無いので躊躇うことなく口の中に放り込む。あんまりしすぎると、ケーキが完成する前につまみ食いだけでおなかいっぱいになってしまうので、ちゃんと考えながらのつまみ食い。
どうしても仕入れられなかったので、缶詰で代用した白桃、の缶詰のプルを引き上げて、保存用シロップから出すと縦に四等分。もうひとつ用意していた小皿に盛り付けて、ようやく下準備は完了。ここからが本番とばかりに、冷蔵庫から生クリームを取り出してボウルに注ぎ込んだ。大体の目分量で砂糖を入れる。どうせ入れすぎでも、自分も“彼”も甘党だから許してくれるだろう。そんなことを考えながら氷水の入った大きめのボウルの中に生クリーム入りのボウルを浮かべて泡だて器でまんべんなく生クリームを混ぜた。途中で、味見と、勢い余って手の甲に飛ばしてしまったクリームを舐めて、案外丁度いい甘さになっていることにまた満足した。“つの”が立つ固さになったことを確認して、それは端に寄せておく。
今度は、クーラーの上のケーキの温度がちゃんと室温並になっているのを見てから、まな板の上で、さっとスポンジケーキの横に切れ目を入れて三段状にした。一段だけまな板の上に残して、先ほどの果物を形よく並べる。その上から絞りに入れたクリームをたっぷりと絞って二段目を上に重ねる。そして二段目も一段目と同じ要領で飾り付けて、最後の一番上のスポンジケーキを乗せる。
形を調整直して、平べったいバターナイフで周りにクリームを塗りたくる。面白がってやたら集中してやると、去年のようにうっかり時間切れまで熱中してしまうので、程ほどに、と時間を気にしながらもなるべく丁寧に進めた。
スポンジケーキの茶色の部分が完全に見えなくなると、上に残りの生クリームと、既製品として販売されていたチョコレートクリームを交互に絞りながら円を描く。その上に洗って“へた”を取って待機中だった苺をいっぱい乗せた。隙間を、林檎や白桃で埋めて、最後に中央に、チョコレートアートとサンタクロースの砂糖菓子を乗せて、ケーキの横の部分にマーク等を書いて、完成。トッピングとして置いていたドレンチェリーの代わりにアラザンとシュガーパウダーをかけた。クリスマスシーズンなので雪を演出したのだ。
「やったぁ!去年より1時間以上短縮な上に出来今年の方がいいかも!」
さっすが私!などと軽口を言いながら、かごめはキッチンテーブルの中央にどんとケーキを置いた。
テーブルの周りは、色とりどりの小さなオードブルパーティー料理。球状のグラスに蝋燭で雰囲気を出してみたりして、かごめはかの人物が帰ってくる前から随分と機嫌が良かった。
それもこれも、一昨年は散々だったクリスマスの日の料理の屈辱戦――慣れない凝った料理を作ろうなどと思い、ろくに説明も読まずにいきなり挑戦してなんとも言えない味になってしまい、さすがの彼――犬夜叉も沈黙してしまったという苦い思いを二度と味わいたくないと、それこそかごめは努力と研究を重ねに重ねた。それは単に、元々得意分野に入る料理で失敗してしまった自分のプライドの修復の為に他ならない努力であったが、どんな理由にしても、料理を出される当の犬夜叉がその健気っぷりを後ろから眺めながらツボに入って崩れ落ちていたという余談もあるという今夜の試み。
もう、何度となく青年の為に料理を作ってきたし、きっと今から先も変わらない予感があった。
何よりも、普段、学生を終えて社会人として働くようになってから、青年があまり十分に休めていない気がして、かごめなりに何度も工夫を凝らした。犬夜叉とは、確かに“恋人”と呼ばれる甘い響きの関係にはなっているが、結婚に踏み切るには早すぎて、ましてやキス以上の関係も早すぎるという段階(だと、かごめは信じている)。
けれども、そんなことは関係ない。少しでも彼が安心して過ごせる時が増えればいい、と願う。
(しかし、実際犬夜叉はかごめの傍にいるだけで十分に休息は摂れているし、むしろかごめが心労を負い、犬夜叉のためにあくせく働かれるのをあまり犬夜叉は好いていない。彼としては、かごめには楽して暮らせるような人生を歩んでほしいとまで思っているのだ。こういうことに関してはすれ違いばかりなのはこの二人の運命【さだめ】なのだろうか。)
「・・・・・ふぅ」
からからとベランダの扉を開けると冷たい空気が甘い匂いを攫って行く。
備え付けにしていたスリッパを履いて、パセリを栽培しているプランターを避けながらかごめはベランダの囲いに凭れ掛かる。ひやりと師走特有の寒気が、かごめが珍しく露出させている肩を容赦なく冷やした。
十六夜の月に照らされる空は少しだけ遠い。実家から見える空よりはずっとこちらの方が近い筈なのに、近付けば近付くほどに遠のく気がした。それが、ここ数年で決定的に変わってしまった生活環境を際立たせている気がして、軽い郷愁感をかごめの心に起こした。
(変なの。・・・・ここから家までなんて、そんなに遠くもないのに)
無意味と分かっていても、かごめは空に手を伸ばした。
手のシルエットと月が重なりかけた瞬間。
がちゃ、
と、鍵の回る音がして、かごめは勢い良く振り返る。誰かを確認する間もなく――するまでも、ないが――スリッパを乱暴に脱ぎ散らかして慌しく玄関へ向かった。帰ってくる、と告げられた時間よりは随分と早いことも手伝い、かごめは動悸が早くなるのを感じていた。
「犬夜叉ッ」
気だるそうに靴を脱いでいた犬夜叉が顔を上げる。かごめと目が合うと、嬉しそうに笑って片手をあげた。
「・・・・ただいま・・・・・・ッと、かごめ?」
「・・・・・・・・・・・・・ッ」
走ってきた勢いを止めずに、そのまま犬夜叉の胸に飛び込むと、少しだけ困惑したような彼の雰囲気が伝わってきたけれど、今の自分のこの胸が空いたような感覚を埋める他の術も持たず、かごめは気にせず犬夜叉の首筋に額を押し当てた。
そうすると、ようやく彼に自分の心境が伝わったらしい。ふ、と微笑むような気配のあと、ゆっくりと力強く抱きしめられた。
「俺が此処にいるのに、勝手に寂しがるな、馬鹿」
「・・・・・・だって・・・」
「・・・なんとなく、早く帰らなきゃいけねぇ気がして帰ってきたけど、正解だったみたいだな」
きゅぅっと、折れるほどに抱きしめられてかごめはようやく安堵した。ほんのりと、首元から香る男物の香水に、毎朝嫌な顔をしながら香水をつける犬夜叉の表情を思い出してくすりと笑う。不思議そうに自分を見つめる気配に、首を横に振ることでなんでもない、と告げてかごめはほとんど掴むような勢いで握っていた犬夜叉の服を離して、小さく息を吐き出した。
「仕方、ないじゃない・・・・いきなりすっごく犬夜叉の顔見たくなったんだもん」
「・・・・・・・お前なぁ・・・」
心底呆れたように溜息を吐く犬夜叉に、かごめは不安そうに首を傾げた。「嫌だった?」と訊ねると、即座に否定の言葉が返ってきたが、そのまま犬夜叉は気まずそうにぷいと目線をそらしてしまった。単に、可愛らしいことを言われてそのまま玄関で少女を構い倒してしまいかねない自分を抑えていただけだが、かごめは(犬夜叉にとっては)都合のいいことに、照れただけだと判断したようだ。
それ以上の追求はせずに、互いに名残惜しいながらも犬夜叉から体を離す。
「犬夜叉は離れないもんね」
「え?」
「んーん、なんでもない!それより、早く来てよ!今夜すっごい頑張ったんだから!」
僅かに聞こえたかごめの呟きを追求するよりも早く、かごめはするりと犬夜叉の腕をすり抜けてリビングへ向かう。
少しタイミングが外れて行き場を失った手を、犬夜叉はどうしようもなさそうにひらひらさせていたが、そのままこの場にいても埒があかないのは重々承知だったので、大人しくかごめに従うことにした。
「見てみて!今年は去年より上手くできたと思わない!?」
「おー・・・」
やけに明るい口調で、かごめは数分前に完成した大作を犬夜叉に見せた。その不自然さが気になって、つい生返事で返すとかごめから「心こもってない!」という叱咤が飛んだので素直に謝っておいた。
室内に北風が吹いてくるのを不思議に思い、首を巡らせるとベランダが全開なのに気付いて犬夜叉はさっさと扉を閉めた。気付いたかごめが「ごめん、全開のまんまだったの忘れてた」と苦笑して謝ったので、ふざけて頭をわしわしと撫でたら嬉しそうな、困ったような表情で笑っていた。しかし唐突に玄関先でふと気付いていたことが気になり、犬夜叉はかごめを撫でるのをやめた。
「犬夜叉・・・・・?」
かごめも、突然やんだちょっかいを不審に思ったらしく、きょとんと青年を見上げる。
だが、疑問を口に出すことはなく、終わった。
「肩、冷えてる」
「え?」
肩を露出した服装だったので、ベランダに出た時点でだいぶ冷えていたのは分かったが、指摘すると同時に、肩口を唇で辿られると、かごめは驚いて「きゃぅ!?」と変な声をあげてしまった。
「・・・・手も。ずっと外いたのか?」
「ッでも、そんな長時間じゃないし・・・」
「そういう問題じゃねぇだろ」
有無を言わせずかごめを抱き上げると青年はそのまま定位置とも言えるソファに投げ込むように座らせた。
素早く暖房のスイッチを入れるとかごめの隣に陣取って、冷えた手に息を吹きかけた。
「あ、あの犬夜叉・・・・」
「黙ってろ」
白く生気を失いかけていた指先が桃色に染まった。室内でも僅かに息が白い。ケーキの甘い匂いが漂い、不思議と犬夜叉は気分が高揚した。クリスマスプレゼントに、と買ったペンダントの箱(ここで、結婚もしくは婚約指輪でも持ってくるという気の利いたことができない妙な不器用さが犬夜叉らしい)がポケットの中で潰れないか、という心配はあったが、そのままリアクションに困って固まっているかごめを引き寄せて僅かに乾いた唇に自分のそれを落とした。
「っ・・・・・・・・・ふ・・・・」
さりげない合図はしたつもりだったけれど、かごめにとっては唐突もいいところな、いきなりの口付けに身を固まらせた。
口唇の隙間から漏れる吐息が扇情的で犬夜叉はどくりと柄にもなく胸を高鳴らせた。
そっと唇を離してやると、あからさまな安堵が半分、残念そうなのがもう半分といった表情のかごめの額に口付けを贈って、引き寄せていた体をそのまま押し倒した。
「あ、の・・・犬、夜叉?」
「・・・・そろそろ」
クリスマスプレゼントは自分自身、なんて気の利いたこと、してくれねぇのか?
挑発のように耳ともで言ってやると、かごめは一瞬だけ呆けて、そのあと一気に顔を朱に染めた。
しばらくは混乱で、単語にすらならない言葉を発していたが、やがて真面目に見つめられていることに気付いて、あきらめた様に溜息をついて答える。
「・・・・・・・まだ、ヤだ・・・・」
「そっか」
案外にもあっさりと引き下がった犬夜叉に、ほっとしながらも、申し訳ないと思った。
まだ、怖い。相手が犬夜叉ならば構わないと思うのとは別に、未知の領域へ踏み込む勇気がまだかごめにはなかった。
誰でもない自分を青年が求めてくれているというのは、それこそ死ぬほどに嬉しいけれど。出来れば、自分なんかでいいのならば、捧げたいとも思うのだけれど。
一度、本気で犬夜叉に迫られたとき。
何かを思うより先に、あれだけ好いて傍にいた相手が、突然まったく知らない人間に見えて、思わず泣いてしまった。
それから、犬夜叉はかごめに無理強いを強いることはまったくなくなった。
お互い、戸惑いを持ったまま相手をそういう対象として見るのはやめよう、と話し合いをつけて、6年目。
犬夜叉も随分もったものだと思う。そこまで我慢してもらえるほどに、愛されているのだと感じるとかごめは愛しさに混じって感じる罪悪感を無視できない。謝られるのを彼が望んでいるとは到底思えないけれど。いつか、自分の心の整理がつけられるだろうか。
そのときは、彼が好きと言ってくれた笑顔で迎えたい、とかごめは思う。
(まだ、“いつか”・・・・・だけどね)
悪戯っぽく笑ってかごめは犬夜叉を促すように押した。
「ね、ごはん食べよう?スープも冷めちゃうし」
しかし、そう言っても犬夜叉はぴくりとも動かない。どうしたのだろう、と表情を見ようとして、
「んっ?!」
口付けられた。しかも、先ほどのものとは違うディープなものに、かごめは目を白黒させた。
「・・・かごめが」
口付けの合間に、言う。
「晩飯の代わりがいい」
「頑張って作ったんだから駄目―――――!!!」
明らかに突っ込みどころを間違った叫びをあげると、かごめは無理やり犬夜叉の下から這い出して小走りにキッチンへ引っ込んでしまった。残された犬夜叉の方は、不服、の二文字を顔に貼り付かせたまま恨めしそうにじっとかごめの消えた先を見つめていたが、これ以上は何をやっても無駄だと悟り、着替えるために自室へ向かった。
(今年こそ!・・・・って思ったんだけどな・・・あの様子じゃ、まだ当分お預けか)
俺は犬じゃねぇぞ、という毒づきこそ負け犬の遠吠えになっているのに気付かず犬夜叉は渋面のままだ。
それでも。
ポケットに入ったプレゼントを渡されたかごめの笑顔が、犬夜叉にとっての一番の宝物なのだから、実はそんなに不満はないというのは、当面誰にも話さない、彼だけの秘密だ。
A Happy Merry Christmas?
【終】
最初フリー小説にしようかと思ってましたが、こんなバカップル恥ずかしすぎて人様に差し上げられない・・・(恥)
ケーキ作ってる姫が書きたかったんです。作り方は私が毎年やってる方法なんであんまり間に受けないように(笑)
「飯よりかごめ食いたい・・・」「あたしの力作食べないっていうの!?」そんなピンポイントずれ会話する犬かご書きたかったの。
(04.12.25)
フリー終了。
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