知らないところで、ほら、崩壊は始まる 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 目が無意識に、黒髪の少女を見かける度に追っていることに気付いて少年は苦笑をこぼした。 まだ、かの少女のことを未練がましく捜している自分が滑稽だった。 はっきりと、少女の口から別離の言葉を聞いたではないか、自分は。 たとえ見つけたところで少女とは何の関係も、自分にはもうない。 いや、違う。 (そんなもん、最初からなかったんだ) ただ、気まぐれにも近い知り合い方で、いつの間にか、自分だけが少女に溺れて。逢わなくなったのだって、自分が原因だ。 たとえ不可抗力だったとしても。 自分と、躯の関係を結んでいたにも関わらず、少女はそんなところはとても潔癖だった。 もし、たとえ依存されて見放せなかったとはいえ、少女に“彼女”の存在を知られる前に別れていれば、少女とは今も会っていただろうか。 いつか、昼間に不自然なことなんて何ひとつなく、普通の恋人同士のように出掛けることも、あっただろうか。 (・・・・いつになくネガティブだ、やめよう) ありえない仮定の話など詮無い。 どうせいくら考えようと、今の状況が変わることは決してないのだ。 ――少女を忘れて、新しい存在を見つける? それが最善だろう。 いつまでも引き摺っていてもきっと意味はないし、前になんて進めない。 そう、理性では分かっていたけれど、どうしても誰か別の人間と付き合う、ということに彼は何の魅力も感じることが出来なかった。 元々、人付き合いを進んでするような性格はしていない。 じゃあ、何故、今もう会えない人間に未練を感じている? “彼女”のように、自分と似ている訳ではない。 依存しあうような仲でもない。むしろ少女は自分の足で一人、前を見据えて歩いていけるほどに強い少女だ。 一度たりと見たことはないけれど、きっと少女は陽の光を浴びた場所でこそ、ひときわ美しいのだろうと思う。本来、夜の関係なんて少女が持っていることの方が違和感を拭えないくらいだ。 だから。 誰か、もっと相応しい人間を見つけて、陽の下で笑いあっていればいいと、思う。 (・・・・・・・・誰と、) 心臓の辺りがざわつく。気分が悪い。 自分以外の誰かと、幸せそうに笑い合う少女。 さぞかし可愛らしいだろうと、見たこともないけれどそう思う。 少しだけ交わす会話の端々から聡明さを垣間見せる少女だ。 そして、どれだけ抱いても決して行為に呑まれない。穢れを知らない。 だから誰にも渡したくないと浅ましい気持ちが占めるほどに―――惹かれる。 「!」 弾けるような感覚のあと、唐突に理解する。 (ああ、なんだ) (これが、“好き”ってこと、なんだろ?) 初めての感覚に戸惑いながらもすんなりと見つけた答えに、彼は自嘲の笑みをこぼした。 (未練がましく縋りつきたいんだ、“―――”) それが、本当に少女の名前か、確証もなくただ愛しげに呟いた。 それだけで、途方もない幸福を見つけた気分になるのだから、始末が悪い。 崩れかけていた足元を見据えて立ち上がると彼は再び歩き始める。 それがたとえ遅すぎたとしても、後悔だけはしたくないから。 ************** 自覚した感覚はとても甘酸っぱくて、照れくさかった。 |
少しの勇気と僅かな奇跡があれば照らせる道もある 神は信じていない。 いや、存在がどうの、というわけではない。 仮にも神社の娘なのだから、神仏を信じないというわけではない、けれど。 神や仏が、誰にでもいつでも力を貸してくれることは決してないのだと、知っている。だから神に助けを請うことはしない。神に祈っても、自分に都合の良い救いなど差し伸べられる筈はないのだと、分かっていた。 結局、自分のことは自分でしなければ進むことも出来ないのだ。 毎日を平穏に生きることで“少女”はそれを実感していた。 “彼”と別れたことは、たとえ夜しか逢ったことのない、そんな薄い関係であったとしても、少女にとっては特別なものだったし、いい加減な関係が続くくらいならば切り離すことすらも厭わないつもりでいたけれど。 (そこまで、私は大人じゃないもの) 迷うことも必要だろう。 悩むことも必要だろう。 すべての経験を礎に、人は成長していくのだから。 (だとしたら) いつか、この止まない苦しみもただの“思い出”として、経験として、自分の糧となる日が来るのだろうか。 だとしたら、早くそうなって欲しい。 そしていつか、どこかの街角で“彼”とばったり会ったりしたときに、『そういえばそんなこともあったね』と、笑って話せるようになるのだから。 そのときになれば、きっと彼は例の彼女とまだ付き合っていられるだろうか。 彼に限って、浮気なんてことは、自分を後にもう金輪際ないだろう。 付き合いは躯だけだったと言っても、彼の気性くらい知っているつもりだ。 あの、変に誠実な気性を知っていれば、どうして自分とそんな関係になろうとしたのかすらも疑いたくなるほどだったのだから。 そして、そんなところが、すき、になったのだから。 (あー、もう駄目だ) ふるふるとかぶりを振ると、つられて少女の長い黒髪も揺れて陽の光を僅かに反射した。 忘れられるようになろうと、つい最近になってようやく思えるようになってきたのだ。何を今更未練がましく、思い返しているのだろうか。 頭の中がぐしゃぐしゃになりそうで、少女は背負っていた鞄を傍の橋の欄干にもたれ掛けさせると中から無地の紙片とペンケースを取り出して、橋の手すりを机代わりに紙片に何か書き始める。 人通りの少ない場所で、加えて、人通りの少ない時間帯だったため、少女の行動に目を留めた者は少なかったが、時折感じる視線を無視してかごめは思うままに紙片に書き散らした。 文字だか絵だか分からない。 ぐちゃぐちゃな心境を投影させるように何も考えずにぐちゃぐちゃと書き綴った。 叫びたい、衝動すらも押し込めた。 書ききって、改めて紙片を見ると意味もない単語の羅列や、絵とも記号ともつかないものが、真っ白の紙片を殆ど黒く塗りつぶしていた。 それを暫く見つめているとひどく可笑しくなって、少女はくすくすと笑いながら紙片をびりびりと引き裂いてポケットに詰め込んだ。 (大丈夫、まだ平気) 物に当たれるならまだ正常だ。正常でいられる。 「さよなら」 荷物を掴むとさっと翻した。 橋の下を流れる濁った水に、紙片を落とそうかと思ったけれど、やめた。 誰にも知られないうちに燃やしてしまおう。 そしてそれで、おしまい。 この気持ちとも区切りをつけよう。 そうすればきっとカウントダウンだって出来るから。 (ずっと立ち止まってなんかいられないもん) さようなら、“―――”。 ************ たった一人で決別することは少しだけ勇気がいる。 |
いつか癒える傷は得てして癒える前に抉られ傷つく 次に再会したとき、少なくとも今はどんな顔をして会えばいいのか判らないひとがいる。正直に言えば、会いたくない。 「・・・・もう、会わないと言った筈だけど」 「了承した覚えはねぇ」 わざと不遜に言い放った言葉は、震えずに済んだだろうか。 「どうして此処にいるの」 「半分は偶然、半分はわざと」 「・・・・悪趣味ね、人の後つけたの?」 あくまで感情を見せる振る舞いはしたくなかった。 そうすれば最後、自分の気持ちは負けたことになる。奮い立たせるように、目の前に立ちはだかった人物を睨んで見据えた。 “犬夜叉”は、“かごめ”の問い掛けには答えずに、小さく息を吐き出した。 「どのみち、これで終わる」 この自分が抱える気持ちか、この最後の繋がりの、どちらかが。 こちらの意を正確に汲み取ったのだろう。 半ば困惑するような表情を浮かべたかごめに犬夜叉は苦笑してみせた。 「・・・・“かごめ”、は本名。実年齢は今年で17だって?神社の娘で、成績優秀、優等生。誰からも好かれる珍しいタイプの人間だってな」 「・・・・どうして知ってるのよ」 「この辺のやつらに訊いたらすぐわかった。で、フェアじゃねぇから要らねぇだろうけど俺の方も言っとく。同じく“犬夜叉”は本名。実年齢は今年で19。一応社会的立場は持ってるけど、両親とは死別。特に人付き合いが好きって訳でもねぇからお前みたく友達多くはねぇな」 指折り数えて彼の口から教えられる初めて知る真実を喜べるような余裕もない。 ただどこまでが彼の本気なのだろうかと推し量ろうとしても、案外にその手の感情を自分に悟らせないくらいの経験値を彼は持っているらしい。 人目で人柄を見抜くと評判の目もこのときばかりは何故か役に立たない。 (惚れた弱みってやつ・・・・なのかな) 悔しくて認めたくなくても、未だに自分の想いを捨てきる為に与えられた時間が短すぎた。まだこの心は、彼に惹かれているのだと再確認してしまったようで、どうも居心地が悪かった。 「・・・・で、どうしてこんなところまで来たのよ」 意図せずとも口から滑り出すのは促しの言葉。 問いかけた途端、急に動揺の気配を見せた犬夜叉に他意もなくひっそりと眉を顰めた。彼がどういうつもりなのか、まだこの段階ではそれすらも見えてこない。 人通りはないとはいえ、帰宅途中の身でいつまでも此処に留まっていたくは無かった。 「話がないなら帰るわよ」 わざと焦れたようにそう言うと、ようやく決心したように犬夜叉がまっすぐにかごめを見つめて、ゆっくりと歩を進め、近付く。 「とりあえず、お前としてきたこと、後悔するつもりはない、ってことと。それでも、いい加減で曖昧なことをしていた自覚はあるから、それについての謝罪と。」 一呼吸置いて。 これが重要なのだと、犬夜叉は殊更真剣な表情でかごめを見つめて、言った。 「虫のいい話なのは分かる。でも、俺ら―――やり直せないか?」 「え・・・・・」 てっきり謝罪だけで終わるのかと思っていたせいで、その不意打ちじみた告白にかごめは一瞬付いていけなかった。 (だって、犬夜叉は彼女がいるのに) 表情にそれが出ていたのか、心を読んだように 「けじめって訳でもねぇけど。アイツとは、別れた。別れるように、した」 淡々としていながらも、僅かに引き結ばれた唇の端は嘘をついているようには思えなくて、かごめは信じられないものを見たような気持ちで目の前のかの人を見つめた。 (どうして?) 「私のことが、原因で・・・・?」 いくらか顔が青褪めている自覚はあった。「違う」という彼の否定の言葉と、心配そうな瞳が目に入ったけれどそれすらも構う余裕が少女にはなかった。 「私が、犬夜叉と、・・・・した、から、彼女さんと・・・・」 「かごめ!」 強い力で肩を掴まれて、そうすることでようやく正常な思考が戻ってくる。 それを確認したうえで、犬夜叉が続ける言葉は。 かごめはそのとき、気付かなかったけれど、とても縋りつくような言葉にしか、聞こえなかった。 「違う、確かにお前と会ったことは別れる原因の一つになったかもしれねぇけど。別れることになった直接の原因は俺の気持ちの問題だから、間違ってもお前のせいじゃねぇ!」 「じゃあ、どうして・・・」 無意識的になのだろうか。 純粋な悲しみを湛えた瞳から二筋ほどの涙を零してかごめは問いかける。 「俺、は」 区切る言葉にすら、息苦しさともどかしさを感じる。 これを言えば最後、この少女と、少なくとも今までの関係は歩めない。 下手をすれば、もう二度と会わないと決意をしなければならないかもしれない。 そう考えてしまうと、竦んだ気持ちが喉を詰まらせて、嗚咽を洩らしているときのような息苦しさと胸の痛みを感じるけれど。 (言わなきゃ何も終わらないし、何も始まらない―――その為に、ここまで来たんだろ、俺) ここでこちらから歩み寄らなければ、何も変わらない。 この、少女に抱き続けた気持ちも少女には伝わらないだろう。 これ以上の関係の進退だって、望めない。最初に仕掛けたこちらが尻込みしてどうする。内心でそう自分を叱咤して、竦む気持ちを奮い立たせた。 「かごめ」 名前を呼ばれて少女の瞳がまっすぐ、青年を向く。 嗚呼。 ここまで、張り詰めた気持ちになったのは、いつ以来だったろうか。 そんな、走馬灯じみた考えが頭を過ぎった。 否、そんなこと、どうだっていい。 今、これを彼女に伝えることが。“彼女”へのけじめでもあって、“少女”への告白なのだから。 まっすぐに見返して、犬夜叉は唇を開く。 「俺は、かごめのことが―――好きだ」 ************** やっと言えた一言。初めて進める最初の一歩。 でも出来るなら、君と一緒に踏み出したい。 |
ただ歩いていく道程を君と一緒に歩めたならば。 想いが通じ合ったなら、それで終わりではない。 そんなこと、重々承知している。 欲しいのは満足感だけではない。 そんなものだけで構わないのならば、少女でなくてもいい筈だ。 存在全てを求めるほどに、焦がれて止まないその腕を抱きしめたくて。 薄暗い闇なんか、少女には似合わない。 陽の元で照らされた、笑顔を自分に向けて欲しいから。 だから、求めるんだ―――。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 沈黙が痛い、なんて感じたのはいつ振りだろうか。 そんなことをぼんやりと考えながらも、視線を外すことなく犬夜叉は目の前の少女を見つめ続けた。ここで掴んだ肩を離せば、視線を外してしまえば、もう二度と自分にはこの少女にこうした想いをぶつけることを許されない気がしていた。 元々、毀れる程に大きくて清んでいた瞳が、明らかに少女の動揺を教えていた。 少なくとも嫌悪されてはいないことに行き着いてひとまず犬夜叉はほっと息をついた。でも、その口から返事を聞くまで本当の意味での終わりは来ない。 (俺に出来るのは、ここまでだ) あとは、少女は判断を下す。 下した判断に、自分は文句なんて言えない。言ってはいけない。 本当は今すぐにでもこの場を去りたい衝動に駆られているけれど。 それ以上に、欲しい“者”が在るから。 「あ、の」 明らかに言葉詰まりな風に、ようやくかごめが口を開いた。 思わずびくりと痙攣しそうになる体を、必死の自制心で押さえ込みながら犬夜叉は彼女の言葉の続きを待った。 ―――かごめも、今相当に悩んでいることは、傍目からでも明らかだ。 恐らくぶつけられるであろう質問に答える準備をしながらも、犬夜叉は少女を不憫に、申し訳なく思いながらも返事を遅れさせるつもりは毛頭なかった。 案の定、というか。 始めに少女がしたのは、問い掛けだった。 「・・・・・どうして、今更私なの?」 「今更じゃねえ。・・・・そりゃ、体だけって関係だったかもしんねえけど。俺は、初めからお前のことが、すきだった。―――自覚するのが、遅すぎて結局、お前もアイツも傷付けちまったけど」 彼の言うアイツ、が誰かとは問うまでもない。 真正面から言われた好きという言葉にかごめは今更ながら頬を赤く染めた。 どうして、何故、なんて。愚問なのかもしれない。 出逢い方さえちゃんとしていれば。出逢うのがもう少し早ければ。 こんなにごたごたとしたことには、ならなかったのかもしれない、と。 かごめは思った。 (だって、こんなにも、私は犬夜叉のこと) 諦められないから。 本当は、傍に居たかったけれど、本当にまともな出逢い方はしなかったから。 ああ、あの自棄になってしまった頃の自分が最初に逢ったのがこの人で良かったと、心の底から思う。それと同じく、この人ではなかったら、とも何度も考えたのだけれど、行き着く先は結局同じ。 「私も、犬夜叉のこと好きだよ」 「・・・・・!」 それだけは偽り無い本音。 飾り気も何も無い気持ちを吐き出すと、目の前の青年は今度こそ目に見えて喜色をその顔に浮かべた。 こんな表情を彼にさせてあげることが出来るのならば、この言葉もそんなに悪くは無いとかごめは内心で苦笑を噛み殺して、口元に小さく笑いを浮かべたあと、自分を抱きしめようとしていた犬夜叉の体を少しだけ押し返して、「ただし!」と付け加えた。 途端に緊張を走らせる犬夜叉に、仕方ないとは思うものの失笑は抑えられない。 少し、言い方がまずかったかな、と反省しながらもかごめは人差し指を立てて悪戯っぽく笑う。 「私、今まで犬夜叉のこと、あんまり知らなかったから。・・・・知っちゃいけないと思ってたから。色々知りたいの。あんたが好きなこととか、好きなものとか、いっぱい教えてくれる?」 ―――青年からしてみればそれは願っても無い言葉で。 半ば呆然とした表情のままに頷いて見せると、かごめは「約束ねっ!」と嬉しそうに笑う。 (あ) 屈託無く、作り笑いではない笑顔を向けられて犬夜叉は動悸が激しくなる。 ずっと、見たいと思っていた顔が。 快楽で堕ちそうになる瞬間の、この目の前の少女と同じとは思えない程の妖艶な姿を知っているけれど、こちらの方がやはりずっといいと犬夜叉は感じた。 言葉の受諾を知って、この少女と、これから何の口実を取り付けなくても逢えるのだと思ったときの喜びもひとしおだったけれど、このときの喜びも別格の気がした。 照れの混じった笑顔が愛おしくて、思わず抱きすくめた華奢な体からは知っている微かな甘い優しい匂い。 「犬夜叉?」 声を聞くたびに 名を呼ばれるたびに 触れるたびに ころころと変わる表情一つ一つを新しく発見していくたびに その存在を認めるたびに 愛しさが降り積もって、重なる。 「かごめ」 呼んだ名の甘やかさを噛み締めながら、そっと陽が落ちる瞬間を横目で捕らえつつも目を閉じて、唇を重ねる。 初めて、という訳でもないのに甘く感じるそれに、触れ合っているだけで途方も無い幸福を感じていた。 ―――これはまだ、最初の一歩を踏み出しただけ。 でも、その一歩は、今までのものよりも大きく違う、大事な一歩で。 隣で、同じ歩みで歩く存在が在ることが、何よりも安心できることで。 大切だから、愛しいと感じるから、 本当は、言葉にすることすらも、照れくさいけれど。 ただ、そう心の底から想ったかの人へ飾りは無いけれど本気の言葉を贈ろう。 「愛している」と。 fin |