――――――――
喉が嗄れて、呼吸をする度にひゅうひゅうと空気の抜ける音がした。






飢えを訴えていた腹はもう、鳴らない。






ああ、もう自分は駄目なのだ。随分前から生きることを放棄してしまっていた。





(人を“喰らって”まで、生きてたくないよ・・・・)






嗚咽に咽ぶ。

耳鳴りは増してゆく。

足はもう一歩も動かせない。

眩暈がする。



だんだんと強まる雨脚の音が煩わしい。

・・・・呼吸すら億劫だ。



いっそすぐ楽になれる術があるのならば教えて欲しい。その為ならば何を差し出してもいい。





(た す け て )

声にならない声で叫び、無意識に手を伸ばした。
普段より白く細くなった自分のそれを、ブレる視界に見つける。
自分は一体誰に、助けを求めているのだろう。先日、自分を庇って死んでしまった母にだろうか。

もう、自分に救いなんてありはしないと知っておきながら。滑稽な自分に、それは嘲笑を浮かべた。





ふと、気配を感じてそれは気配の主を見ようと顔を上げた。その動作すら緩慢で、苦痛だ。
だが一瞬だけ、その苦痛を忘れることができた。目の前にあった、緋色の水干を纏った、金目で銀糸の美しい“夜叉”を見たからだ。異形の『少年』と思しき半獣。美しさに息を呑み、まだこんな美しいものがこの世にあったのかと、そして自分が恐らく最期に見るであろう存在が、彼であって良かったと、それは小さく彼に微笑んだ。

少年が伸ばした自分の手を取った気がするが、それを確認する前に“それ”は意識を落とした。



































(・・・・・・?)
気だるい体が、ひやりとしたものに触れて、“少女”は覚醒した。

意識が落ちる前に感じていた喉の渇きはもう感じない。ただ、空腹感も戻ってきているようで、意識が覚醒すると同時にくぅ、と鳴った。久々に聞くそれは、ああ、自分は結局生き延びてしまったのか、ということを少女に確認させただけだった。
それよりも少女はふと、自分が肌寒さを全く感じていないことに気がついた。
それで、五感は相変わらず痺れたままで気付かなかったが、自分は今誰かに抱えられているのだと知る。

人肌の温もりも心地よいし、瞼もしっかり開けられない。周りは暗闇で、自分が今、どういう状況に置かれているかも分からないが、ともかく誰かに救われたのかと、ぼんやりと考える。元々少女は聡明だったが、こうも何日も物を食べずにいてはその頭すら回らない。

「起きたか?」

問われて少女はびくり、と体を震わせた。
聞き覚えのない、変声期を過ぎたばかりのような少し高さの残る声。少女は必死に瞼を開けようと試みた。


最初に目に入ったのは、白銀の髪。琥珀色の黄金目【きんめ】。
美しい色彩に少女は暫し見惚れてぼんやりとしていたが、それが自分が意識をなくす直前に見た夜叉のものと分かると困惑して首を傾げた。
「大丈夫か?」

再度、安否を問う声に、少女はこくりと頷いて返した。その返事に夜叉の少年はそうか、と言うと少女の体を離して、草の上に横たえた。
ついでに、着ていた水干の着物を少女に掛けてやると、隣に置いていたらしい果物を少女に差し出した。

「食うか?」

困惑したままの少女に、少年は返事も聞かずに果物を真っ二つに割ると片方をよこし、もう片方に齧り付いた。

初めはぼんやりと、無理やり手に持たされた果物と黙々食べ続ける少年を交互に見ていたが、甘い芳香を漂わせるそれに思わずまた、腹の虫が鳴くと、恥ずかしそうに顔を染めて、やがておずおずとそれを口に運んだ。
甘味が口の中に広がり、飲み下すと体全体に染み渡る感覚だった。

ただそれだけが無性に悲しく、また嬉しくなって、少女は二口目を飲み込み終えたところで、ぽろぽろと涙が零れ落ちたのに気付いて目を擦った。泣いたのも本当に久々だ。
だが、それよりも驚きべきは、目の前の少年の言動だ。突然泣き出した自分におどおどと態度に困っている。

放っておけばいいものを、わざわざどうすることもできないのに気にして。悲しさが競り勝っていると思いきや、いきなりのそれに驚いて少女は涙を失った。やがて、それが酷く可笑しくてくすくすと笑った。
「何、笑ってんだよ」

決まり悪そうに少年が毒づくと、少女は小さくごめんと呟いて俯いた。少年は驚いて少女を見た。
「何だ・・・・喋れるのか」
「ん・・・・私を助けてくれたのはあなた?」
ゆっくりと起き上がると、少女はさり気なく、少年に誰何【すいか】と共に現状を尋ねた。
少年は頷くと、手の中の果物を飲み込んで、指に付いた果汁も嘗めとって答えた。
「俺は犬夜叉。・・・確かに、これは助けたっつぅんだろうな」
微妙な言い回しに、少年は根が意地っ張りの正直者なのだと確信した。
「私はかごめ。ありがとう、わざわざ・・・・」

そこまで言って、少女は迷った。恩人とはいえ、自分の素性を明かしても構わないのかと。
確かに命は惜しくない。むしろ、苦しいとすら思って捨てたいとも願ったものだ。それに、少年はすでに気付いたかもしれない。自分の素性に。だから、あの場で殺さず、生かしておこうと考えたのかもしれない、と。
少女は迷った。すると、それに気付いてか少年は口を開いた。
「・・・・本当は、人間だったらあの場でくたばっていようと俺の知ったことじゃねぇけど」
(知ってる・・・・分かってるんだ。この人)
少年の意味深な物言いに、少女は露骨に肩を竦めた。
「お前・・・・半妖だろ?」







 * * * 








「半妖の血肉は、妖怪や人間にとっちゃ、珍味だったり不老効果まで与える産物だ。あんなところに転がってたらいずれその辺に巣食う性質の悪い妖怪どもに食われて骨すら残ってなかったぞ、お前」

脅しのような科白に、かごめは俯いた。そして、いくばか逡巡したのち、再び顔を上げて問い掛ける。
「じゃぁ、彼方は私を食べる?魂を奪って」
「っ!」

魂を、縛り付ける方法は至って簡単だ。純潔を奪ってしまえばいい。
良かれ悪かれ、その繋がりは相手の心を繋ぎ止めるには最善の方法なのだから。

半妖の魂を奪った者は、その半妖が死ねば魂だけはその者の場所へ帰ってくる。そしてその恩恵を受けられる。
少女が“狩られる”理由はそれだ。その理由のために、少女は母を失った。
だが・・・恩人の彼ならば、自分が了承している間に喰われてしまうのならば、まだ己も納得できると思った。
この先、行き続けても“狩られる”ことに変わりはない。だったら少しでも縁のあった者の足しになれる存在になりたい。
ただそれだけが少女の思うところで、漠然としか知らないことに対しての恐怖は拭えていなかった。だけど。


そっと少年の、犬夜叉の手が、少女の顔を爪で傷付けぬように触れた。
「お前、親・・・・は、その様子じゃもう死んだか殺されたよう・・・だな。お前、狩られかけたのか?」

こくり。

声に出して答えれば、嗚咽も一緒に毀れそうだと思い、少女は頷いただけだった。華奢な肩が震えた。
少年は何も返さない。ただ辛そうに・・・といっても、かごめは俯いていたので雰囲気で想像しただけだが・・・顔を歪めると、やんわりとかごめの黒髪を筋通り辿る。


少女は、闇よりも深い漆黒色の髪の上に、獣の耳(といえども、黒いそれは実際、髪と混じってしまえば遠めでは少しも違いが分からず、普通の人間の少女にしか見えない)を、瞳に紫色【しいろ】を持っていた。
それだけなので、耳さえ目立たなくすれば人に紛れて過ごすことだって出来た。
だがある日、それがバレてしまった。
妖怪は畏怖の存在だが、人と妖の中間にいる子供は不老の妙薬と、人の扱いすらしてくれない。
それまで仲の良かった人間が、手のひらを返したように自分に襲い掛かってくる恐怖。
だけれど人に猜疑心も憎悪を浮かばせることの出来ない自分。日々妖怪にも人にも追われる毎日。


怖くて。


ただとてつもなく怖くて。


「私に渡せるものは何でも渡すから・・・・助けて・・・私を殺してっ・・・・!」
搾り出すような悲鳴に、華奢な腕で必死に自分の袖に縋り付く少女に少年は小さく舌打ちする。

そして・・・・言い捨てた。

「ふざけるな」





「俺は女を甚振る趣味はねぇ。まして、死にたいなんて、逃げたいなんて願う奴に力を貸す義理もねぇよ」

昔の自分を見るような錯覚に、犬夜叉は軽い眩暈を感じた。
少女が驚いて、落胆もこもる目で自分を見つめる。
「・・・・・・俺も、半妖だ」

落胆の目は驚きに変わり、やがて悔恨に変わる。
「お前を喰うつもりなら、最初からあの場で喰ってる。・・・・でも俺は嫌だ。人を喰らってまで生きるのは。
 もしそれに罪悪感も感じなくなったらそれは俺が俺じゃなくなる時、心だけが妖怪になる時だ」

「ごめん、なさい」

最もだ、と思うと同時に、同じことを考えられる存在に出会えたことに喜びを覚えた。
不謹慎とは思ったが、この恩人に何か返したいと思ったこともまた、事実なのだ。

「でも、お礼がしたい。一生掛かっても構わないから」

かごめはおずおずと切り出した。それには少年も呆れというより賞賛を表したいほどだ。
だが、少年は特に望むものはなかった。
母も父も失い、残ったのは妖刀と、時々しか姿を見せない小さな父の従者だけだ。
だがそれでも少年は、そこらの妖怪に負けてしまうことは万一にもなかったし、ひとつのことを除いては特に不自由なく生きてきていた。

人よりも長い歳月を、独りきりで生きていかねばならないという孤独な現実以外は。





(だけど頼めない)

(こいつはまだ、人が好きなんだ)

(完全に人と切り離す真似は)


その人間が、彼女を受け入れてくれないのに?
むしろこのままにすれば、遅かれ早かれ死んでしまうような無防備な少女なのに?
だったら同じ属性の情で、少しでも永らえてほしいと願うのは、間違っていない筈だと、思いたい。


迷いが消えると、早かった。

まだ体力もまともに回復していないだろうことは明らかな少女を乱暴に、草の上に押し付けると問い掛ける。
「『契約の上、所望する。俺の傍に仕えることを。代価は力。其の犠牲は自由』」

強制的な契約の呪詛。だが同等かそれ以上の力の持ち主が相手の場合のみ、拒めばそれは契約できない。
少女が『否』を唱えれば、少年は二度と少女に近付くことを赦されない。
(このまま一緒か、そうじゃなきゃ俺が絶対に、こいつの身に何が起きても手出しできなくなれば)
少しは今のこの虚しさも、救われる気がした。

少年は半ば、少女が否と答えることを思っていた。
だがかごめは少しの間茫然としていたがやがて柔らかく微笑むと言った。
「『誓います』」

と、応の言葉を、静かに。





こうして
――――――少女は右胸に烙印を貰い受けた。


自由を代価に、庇護の力を。
軽い火傷が焼け付くようなひりひりした感覚にかごめは右胸を抑えて顔を顰めていたがやがて、そっと顔を上げた。
「あなたを私はどう呼べばいい?『主様』?」

「いや・・・・」

軽く逡巡したのち、少年は答えた。
「犬夜叉って、普通に呼べよ。主従は結んだけど特に意味はないから」

あえて言うならば、犬夜叉の方が必ず従者であるかごめを護らなくてはならなくなっただけだ。
最初からそんな関係を望んだ訳ではない。そもそも、少年は自分の下に人がつくのを嫌っていた。

「対等か、それ以上か。じゃないと俺は怒るぞ」

拗ねた様な物言いに、かごめはくすりと微笑んだ。だが、犬夜叉の次の言葉でそれも消える。
「で、俺は犬神の血が入ってる半妖だけど・・・お前は?」
できれば一番、聞かれたくない質問だ。しかし、主従を結んだ相手に黙秘は許されない。
嘘を吐けば、身体の妖力が一時抜けて、その反動で息が出来なくなる。
「・・・猫。猫又の血」

「・・・なんか、犬と猫って不思議な組み合わせだなぁ」

犬夜叉の軽口に、かごめは返すことができなかった。
ただ、そうと悟られぬように、“詰まった息が”回復するのを静かに待った。





(傍にいるなら誰でもよかったとか、本当は見捨てて行くつもりだったのに、微笑まれて気になったとか)



(嘘を吐き通さなくちゃいけない理由なんて)






――――話せない。たとえ、相手を騙すことになったとしても。




【終】

私のオリジナルの話と犬夜叉混ぜたパラレル話。つじつま合わせにえらい苦労しました。(04.3.20)