「はっ・・・・・ぁ」

息を吐き出して、体から力を抜くと、膝から力を失って、がくりと体勢を崩した。
慌てて得物を持つ反対の手を地に付き、体を支えた。周りにはすでに邪な気は残っていない。
帰り血でべとつく髪に辟易するより早く、水浴びできる場所はないだろうかと、視線を闇夜へ這わせた。
視界の隅に、生きていたことを主張するかのように、未だびくりと、その肉秋を震わせる残骸が捉え、
かごめは
――少女の名だ――僅かに眉を顰めた。嫌悪してではない。

不可抗力とはいえ、物の怪とはいえ、その命を奪ってしまった。
冷えた思考に直接叩き付けられるような事実に、かごめは鼻先と目頭がじんと熱くなる。

今更のように、体が震えた。しかし、のんびりもしていられない。

早く己が盟主の元へ戻らなければと、細胞の一つ一つが叫んでいる。『主』が、自分を呼んでいる。

とても必死に。

無理もない。
月のない夜空をもう一度仰いで、かごめは再び吐息を吐いた。
『主』に逆らった『従者』は、必然的に灰となり、遺体すら残せない。
優しい主は、自分を灰にさせない為に、自分へ強い呪【しゅ】をかけないようにしてくれている。
今も呼びかけこそして来ても、それは命令ではなく懇願に近い。

この夜
――主である犬夜叉が、人の姿をしているといきは、“契約”の内容が薄れる。
ある程度は逆らっても、従者が打撃を受けることはあまりない。
それを逆手に取った自分を、彼はまた怒るだろうか。もう数え切れぬ程の朔夜を明け、そのたびに自分は毎度、思索をこらして犬夜叉を大人しくさせ、自分ら半妖の匂いを嗅ぎ付けた妖怪を殺している。
相手が何であろうと。
自分に殺しが向かないのはかごめ自身が一番理解している。
しかし、危険を冒してまでも、彼を護りたいとかごめは思う。
普段、護られてばかりだ。この一夜くらい、彼を護りたいから
――かごめは何度でも主を逆らう。

これだけは絶対に譲れないのだ。


かごめ、と。

声とは違う、意識に直接語りかけてくるような切実な声に、かごめは急いで立ち上がる。

未だ震える体を叱咤して、そこかしこに散らばってしまった矢と矢筒を拾い上げ、まだ使えそうなものは射抜いて倒れ伏す妖怪の体から引き抜いた。
朔の夜に毎度あるわけではないが、決して少なくもない一人きりの戦い。母から継いだ巫女の力と父から継いだ傷付きにくい体のお陰で傷を負うことはほとんどないが、この戦に慣れる筈はない。
引き抜いた瞬間の、肉を引き攣らせる感覚を直に伝える矢を、そのままにして帰ってしまいたいが、人里へはなるべく寄らぬようにしている身。武器がなくても大丈夫だが、戦いは一層やりやすくなるし、あるに越したことはない貴重なものだ。

目を閉じて力任せに引き抜くと、それまで強固な肉体を保っていた体が、塵のようにぼろぼろと崩れ始めて、やがて風に浚われ消えた。それを最後まで見届けると、ふらりと頼りなげな足取りで、かごめは歩き始めた。
目指すのは、主を置いて来た洞窟ではない。僅かながらも聞こえる水の流れる音のする場所だ。早く犬夜叉の元へ帰りたいとも思っているが、その前に血を落としてしまいたかった。邪気に長い間当たるのは、霊力を持つ自分にはひどい悪影響を及ぼす。

自分の黒髪を、言葉を濁しながらも「綺麗」と言ってくれた主の為でも、また自分より優れた嗅覚の主に、無駄なのは承知だが少しでも不快な気分を味あわせぬよう、少しでも軽減させる為でもあった。

――最大の理由は、“血に酔いそうになる”自分を抑える為、だったが。



* * * 



折りよく見つけた小さな湖で、かごめは髪と体と着物をさっと洗った。
浴びて間もなかった血は幸いすぐに流れ落ちた。素肌に直接触れる夜気は寒いと思ったが、簡単に作った焚き火にあたっていれば耐えられた。それにしても、ここまで無防備な恰好をしているのを犬夜叉に知られれば、ひどく怒られてしまいそうだと、かごめは苦笑をこぼした。
辺りにはかごめの鼻でも微かに残る鉄のにおいに、それでもマシかと、今度は妖怪から引き抜いた矢を水に浸す。

ぐずぐずはしていられないけれど、できるだけ丁寧に血を洗い流す。一通りのものを洗い落とせると、半乾きの着物に裾を通す前に、かごめは自分の体を診た。痛みはなくても出血していることはざらにある。
自分の我侭で主に心配をかける訳にはいかない。
慎重に調べて、どうやら無傷と分かるとかごめはほう、と安堵した。急いで着替えて、休む暇もなく駆け出した。
感傷している暇も、立ち止まっている暇もないのだ。
彼は望んでいなくても、自分の命は彼の為に存在するのだから。

(犬夜叉・・・)

主の名を内心で呟くと、軽く心臓が締め付けられた感覚に陥る。主従の契約とはまた違う甘い束縛感の意味もわからず、かごめはきゅっと唇を引き結ぶだけだった。























「信ッじらんねぇ!普通主人結界の中に閉じ込めて飛び出す従者いるか!?」
「でも・・・・・」
「でも、じゃねぇよ!・・・・無事なのは分かるけど・・・見えない所でお前が傷付くの耐えらんねぇんだよ馬鹿やろう・・・」
「・・・・・・ごめん」

帰り着いて最初に犬夜叉にされたのは、きつい抱擁。勿論、その後散々怒られたけれど、それの端々にさえ見えるのは安堵と心配。どこにも怪我はないかと再三尋ねられ、抱擁を解こうとしない腕にされるがままになって、かごめは力なく答えた。

朔の夜、こうやってかごめが自分を囮に飛び出して帰ってきたあとは毎回あることだ。最初はこんな抱擁もなく、ただ盛大に怒られ、最後は決まって体の心配をしてくれた犬夜叉に罪悪感を感じない日はない。
半妖の血肉は、人にとっても、妖【あやかし】にとっても不老や妖力増大の妙薬となる。数年前までもたらされていた平穏は唐突に崩れた。かごめも、おそらく犬夜叉も、どちらかといえば人に近い形を持っていたので、人の里で普通の人間と何一つ変わりない生活を送っていたが、“異変”のせいで素性がばれた。

今まで仲良く暮らしていた友が、同士が、大人が。自分を殺そうと襲って来る恐怖は、いまだかごめの精神を苛んでいた。
父は風の噂で死んだと聞き、唯一の味方だった母は、かごめを庇い少女の目の前で事切れた。

血を流してはいけない。見てはいけない。

幼い頃から母に言い聞かされていた。
人の棲む世で生きてきたからか、かごめの精神は誰よりも人の姿に近かった。
しかし、いくら近いとはいえ、半分は本能で血肉を欲する妖の血を継いでいる存在。
父の存在や血を疎ましく思ったことなど一度もないが、血の匂いは妖怪の本能を目覚めさせかねない。

言われ、そして理解していたからこそかごめは戦うことを拒んだ。


強靭な力に抗える力を持っていながらその力を今まで使わなかったのは、それを守る為だった。
しかし、少年と、犬夜叉と結んだ誓約で状況が変わった。己の為だけに存在する命はもうない。今は自分と、自分以上に大切な主の命を護る為の命【ちから】。

命さえ掴む誓約のお陰で、盟主以上の力を使える者はその力を発揮することができない。
意図的に、妖怪の力を抑えるという効力をもたらしたのだ。(確かに、犬夜叉本人も自覚はないことだが、彼の妖怪としての力はそこらの本当の妖怪とは比べ物にならないほどで、力を抑えるというには少しばかり許容量が大きすぎるが、不思議なことに抑制の役割はとてもはっきりと出来上がっていた。)

元々、主従の関係を結べば、必然的に傍へいなくとも互いの存在を感覚だけで察知できるのと、守り守られの関係が出来上るという特性がある誓約だったからこそ、犬夜叉はこの誓約をかごめに持ちかけた。

主従でありながら、それを重んじない犬夜叉は、別にかごめに護られたいとは思っていなかった。護るだけで構わないと。
最初は、同属の少女のひ弱さを憐れに思い、いつか自由になるときまでは自分が護ってやろうというらしくもない親切心からの行動だった。しかし、今は違う。数えるのも億劫なほど毎日顔を合わせていると、いくらの冷徹な人間でも情ができるように、犬夜叉にもかごめに対する僅かだが確かな執着心を持ちつつあった。

無くしたくない、これからも傍にいたいと思える存在。


しかし、完全にどちらにもいけない犬夜叉とは違い、少女は人の身に近い半妖。妖怪が本来持つ強靭な力の代わりに霊力を持ち、その霊力だけで純粋に戦えば、おそらく犬夜叉でも勝つことはできない。誓約はあくまで妖力の元で行われたものなので、誓約内容と違う力の霊力を使われてしまうと、力でいうと妖怪の血の濃い犬夜叉は(実際に戦うような事態は起こり得ないが)本気でぶつかりあえば少女には勝てないだろう。
証拠に、主従の誓約が薄れた今夜、まんまと動きを拘束された。

確かにかごめは、妖怪に対しては強い。
しかし、純粋な力比べだけに限定すれば、人間の男にも負ける、しかし並の女より少しは強いという程度だ。
そんな少女が、自分を庇う為に、自分の身を餌に向かない戦いを強いてまで犬夜叉を護ろうとする。妖怪だけが相手ならばまだいい。力比べにさえ持ち込まれなければかごめが負けることはまずない。しかし、相手は何も妖怪だけではない。不老を願う、金の欲に溺れた人間だって自分たち半妖の存在を狙っているのだ。
霊力が意味を成さない相手にどうやって勝てるというのか。力を奪うというだけの理由で純潔さえ奪うような存在ばかりなのに。危なっかしくて仕方のないのに、助けにも行けないもどかしさは言い表すことさえできない。

(血のにおいが・・・・・・・ひどい)

かなり薄めれれているが、それでもにおう血の臭いに犬夜叉は眉を顰めた。湿った髪や服は、帰ってくる途中で足が滑って川に落ちたと誤魔化されたが、自分の鋭い嗅覚を慮って水浴びして来たのは明らかだ。

(護られるだけでいいんだよ、お前は)

施しを受けるだけなのは耐えられない少女に、その本音は言えない。きっと間違いなく嫌がると分かっているから。
――だからせめて。
(俺の半妖としての力は、お前も護るために使いたい)
どれだけ少女に惹かれているかも自覚せず、少女の体をきつくきつく抱きしめた。




 * * * 




(・・・・・駄目だ)

少しでも気を抜けば意識が飛びそうになる。
平静を保つためと顔色を悟られない為に神経を使っているせいで、必然的に口数は減り、歩くペースも落ちて、自然と犬夜叉の少し後ろを歩いていた。周りから見れば、少し風変わりだろうが何の異変もない男女に見えるかもしれない。しかし、そんな努力も、少女が一番引っ掛かってほしい相手には通用しないのは、分かっていた。
いつもより遅い歩調。気遣うような気配。一定時間ごとに感じる視線。こちらが言うまで気付かないふりをしていようと思っているらしいがそれもバレバレで。見え透いた気遣いに、かごめは罪悪感を感じながらも、歩みをやめない。

(ごめんなさい・・・・あなたは、優し過ぎるから)

言えない。

最初は嫌悪しか抱けなかったにおいが芳しい、などと感じたら終わりだ。
主従を結んでか、己より主人の命に執着するようになった。欲する存在が、ただ一人に搾られた。

遅かれ早かれ、“こう”なることは分かっていた。
それだのに、彼の言葉を肯定したのは
――恩を返したい、なんて建前だ。
そう思わなかった訳ではない。しかし、それよりずっと強く願ったのは、誰でもいいから傍にいてほしいという我侭な願い。

(思ったより・・・・早かった、かな)

犬夜叉に気付かれぬように、ぎゅっと腕を抱きしめ、かごめは自嘲した。
他人を気遣うのならば、さっさとこの命を終わらせれば良かったのに。
盟約をかわした、つまり執着を持った人物を、“獲物”として見てしまわないうちに、早くなんとかしなければ。
自ら邪な気や血を浴びる真似をしたから、時期が早まったのは百も承知だ。
しかしかごめは後悔していない。自分がそうすることで、犬夜叉が怪我のひとつもなく朔の夜を明かせるというのならば。
そんな脅威もない、静かな夜はただ寄り添っているだけで安心できると彼は言ってくれたから。

くらり、と足がもつれる感覚に、倒れる、と他人事のように内心で呟いたあと、意識は暗転する。
「かごめ」と呼ぶ声と、結局来ることはなかった、打ち付ける痛みの代わりに触れたぬくもりへ返事をすることは、叶わなかった。

肉体を失っても、今ならば主人である彼に、魂だけは糧として差し出せる。
彼には言わなかったが、かごめはその事実があるだけで、死さえも怖くはなかった
――






























―――・・・・・・・」
「おや、気付いたかい」

額にひやりとあたるものに気付いて目をあけたかごめが最初に見たのは、少年ではなく己のものと似通った巫女装束を纏う老婆だった。
薬草の匂いが染み付いた、だけれど快い気分にさせられる皺の深い手にかごめは目を細めた。

(私の村にもいたな、こういう人)

むしろ、かごめが昔住まっていた村は、かごめの素性が知られても、闇に囚われ、自分を狩ろうとした者を止めようとしてくれた者も何人もいた。今はもう過去のことで、その人等が今、生きているかどうか、確認する術もない。
軽い郷愁感と寂寥感に捕われかけた自分を振り払うように、今姿の見えない少年は何処にいるかと尋ねようと口を開いた。

――――・・・・・・・・ぁ」

思うように声が出ず、喉の奥を空気が掠めただけだった。
しかし、老婆はかごめが何を言いたかったか、正確に汲んでくれたらしい。
「私はこの村の巫女長の楓。・・・・二日前に犬夜叉がお前さんを抱えて此処に来たんだよ。今、あ奴はこのボロ屋を貸す替わりに雑用を頼んでいるよ」
呼ぶかいと尋ねる楓に、かごめは首を横に振る。
何をしているかは知らないが、自分が覚醒したのは今の瞬間で気付いているだろう。
何を言おうと仕事を放置してでもここに駆け付けてくる、という確信に近い予感があった。

予感が、ゆっくりと半身を起こした瞬間、事実になった。
「かごめっ!!」
ばさっ、と勢い良く御簾が上がり、見慣れた緋色が覗いた。畑仕事でもしていたのか、手足は泥だらけで上は小袖一丁、銀糸の髪は高く結い上げられているという普段とは違う出立ちだった。
しかし、小袖姿だったのは、眠っていた自分に水干の衣をかけてくれていたからだ、とかごめが気付いたのは犬夜叉の姿を見、視界の下の方に映った緋色を確認したあとだった。
彼は犬夜叉、と少女が呼びかけるよりも早く、床が泥だらけになるのも構わず上がりこむと、かごめの肩を掴んで軽く揺する。
「大丈夫か!?どっか記憶曖昧になってるところねぇか!?声は」
「これ、病み上がりに乱暴するんでない」
「っ・・・・・・・悪い」
冷静な楓の言葉に我に帰った犬夜叉は、つかんでいた肩を離した。
はぁ、と楓は息を吐く。
格子の近くに吊るしてあった布を一枚、犬夜叉に放ると短く「床と、それから足の泥を落とさない限り、かごめには近づかぬこと」と言い渡して犬夜叉を黙殺させると楓はかごめに向き直った。
「犬夜叉から事情は大方聞いたよ。・・・お前、“アレ”の半妖だね」

びくん。
一際大きく、かごめの動揺が伝わる。
「驚か、ないの?」
犬夜叉の物問いたげな視線に気付かぬふりをして、かごめはまっすぐ楓を見つめ返して尋ねる。
楓はゆるく微笑んで答えた。
「“魂の波動”の被害者かい。人馴れしておる。可哀相に。・・・・犬夜叉とて半妖だろう?今更驚かないよ」
いったん、そこで息継いで楓は続けた。
「丸二日眠り続けておったのだよ、かごめは。平常に戻るまではおとなしくしているんだよ」
優しく撫でてくれた手に、こぼれそうになる涙を抑えるのでかごめは精一杯だった。





【続】

・・・・何故、アクションシーンを書きたくて書き始めたのにこんなグロテスクな始まり方なのこの話(涙)そんなこんなで過去話。
お互い、恋愛感情は芽生えているのに自覚のない状態です犬かご。早く現在の話に戻りたい・・・・・
設定とか状況はなんとなく予想して読み取ってください。
(04.11.15)