―――乾きを訴える躯が求めるものは、何?




















act1.拘束





逃げてしまうことが楽なのは、分かっている。

逃げないからこそ“今”この瞬間がとても苦しいということも、分かっている。

それでも、逃げちゃいけないことなんて、山ほどある。

だけど、だけど。


書庫独特の、埃臭い匂いは嫌いじゃない。
古びた本から微かに匂う黴臭さも、新書から匂うインクの匂いも、嫌いじゃない。それは長年、慣れ親しんできたものだし、たとえこれから先、どんなことがあっても、一生この匂いから離れるような日は来ないだろうと断言できるくらいには、書庫が好きだ。
知識欲を満たせる本が好き。派手なことは確かに好きだけど、喧騒のない静かな場所で静かに本を読むのも好き。だから、中の蔵書ごと、俺は書庫がすごく好きで。それは、純粋に知識欲を満たすことが出来るから、というのもあるが、何よりも時々訪れる、アルにさえ近付かれたくないとき、本に夢中になっているということを理由に世界から隔絶した場所へ来ることができるから、ということもあった。

軍の狗になったことを後悔していない。旅から旅への根無し草をすることにも、後悔なんてない。
そうしなければ、俺の願いが叶えられないというなら俺は知りもしない他人に罵られることだって喜んで受けてやるさ。たった一人の大切な家族を、一刻も早く俺から解放してやりたくて、狂ったように研究に明け暮れる日々。
色んな人に心配をかけているという自覚はあった。
でも、俺には立ち止まったり休んだりする時間なんて必要ない。目的を果たす前に倒れるのはごめんだと思うけれど、目の前の可能性には少しでも早く近付きたいし、掴みたい。

そう思うからこそ、嫌いなひとがいる。

大嫌いだ、こんな大人。




「ッ・・・・・」
ぎり、と肉が食い込む音がする。
機械鎧と、生身の腕を押さえつけられて、俺と、相手の腕もだいぶ痛手を受けているようだった。
馬鹿な大人。放っておけばいいのに。そんな痛そうな顔するくらいなら。

「こちらの言い分に聞く耳は持たない、と?」
低く、機嫌の悪い声がそう訊ねてくる。
くどいな、何回聞かれたって答えは変わらない。
「俺が何をしていようとあんたには関係ないだろ!」

あ、やばい。

そう、本能的に思った瞬間に、それは遅い認識なのだと知らされる。
押し付けられていた本棚からそっと圧迫が押し退いたと思うと、次の瞬間に、後頭部に重い振動が来る。
人並みはずれた運動神経っていうのは、実は結構俺のウリだったから、相手がこいつだったとしても、簡単に組み伏せられたのはすごいショックだった。
「関係ない、か」
獰猛な獣のように低くなった声。鋭くなった漆黒の瞳。
俺が完全に、この人の逆鱗に触れてしまった、ということを認知するのに大して時間は掛からない。
何よりも、いきなり床に叩きつけられるように押さえ込まれて頭がぐらぐらした。気持ち悪い。脳震盪を起こしたらどうする、この馬鹿大佐。文句はいくらでも思いついたけど、いつもみたいに何一つ返すことは出来ない。
文句を言う暇があるなら、逃げ出せ。

俺の第六感がずっと警鐘を鳴らしていた。



―――――逃げなくちゃ。


何処へ?


何から?


どうやって?


どう考えたって、逃げる隙を与えてくれるとは思えない。
この人に追い詰められたときの犯罪者の気持ちがよく分かった。命の危機に立たされている訳でもないのに、ひたすら怖かった。大佐のこと、怖いなんて感じる自分がすごく腹立たしいと感じる反面で、逆らうことを赦さない雰囲気から逃れたくて、俺は視線を外した。
途端に、抑えられていた腕がきし、と悲鳴を上げる。
右は何も感じないけど、左がものすごい力で圧迫されていて、骨が僅かに軋む音が聞こえた。

おいおい、勘弁してくれ。これを壊したら俺はウィンリィにまたスパナで殴られることになるんだぜ。・・・・あいつを、心配させることになるんだ。間違っても壊さないでくれよ。左手が折れたら旅だってやり辛いし、やっぱりアルに心配掛けちまう。
「関係ないと、言えるか。その口で」
「ッ・・・・・・・」

片手だけで俺の両腕に思い切りかかる力に抗おうと腕を捻ると、露骨に不機嫌そうな大佐の余った片手が俺の首を絞めた。
「ッ・・・・・は、ぁ・・・・!」

喉が引き攣る。
気管がダイレクトに押し潰される感覚に、まだ水の中で溺れ死んだ方がマシだとも思う。

なんで、何に対してこんなに大佐が怒ってるのか、とか。
俺に何が言いたくてこんなことしてんだ、とか。
なんにしてもやり方間違ってないか?とか。

言いたいことは色々あったけど、結局俺の喉を覆う大佐の手を解こうと、その隙間に手を差し込むことしか出来ずに俺はだらしなく口の端から唾液を零す。






このひとは、俺を殺すつもりなのかな。



死ぬつもりはない筈なのに、それ以上の抵抗をすることを、俺は出来なかった。

いや、“しなかった”。


脳が酸欠を訴えて視界が白くフェイドアウトしていく中、案外それを普通に受け入れている俺が自分でおかしいと思った。だって、ここまで走ってきて、どうしてこんなにあっさり終わるかもしれないってことを、こんなに素直に受け入れちゃってんだ、俺とか思うし、スカーに殺されそうになったときはあんなにも怖さを感じたっていうのに、今は何も怖いと感じないのを変に思ったり、とか。

多分、死ぬかもしれないっていうのと同時に、大佐は俺のこと殺さないって信じてたんだと、思う。

すごい悔しいけど、大佐は胡散臭くても信頼できる奴だって分かってたし

もし万が一、ここで俺が死んでも責任取ってアルの体を元に戻してくれることはしてくれると思う。

冷酷で、捨て駒のことなんて歯牙にも掛けない鬼だなんて囁かれてるけど、実際はその捨て駒を捨てられずに大事に護ってやっちまうくらいに優しいひとだから。
そんな大佐、本当なら知りたくなかった。

知らずにいたら、最低な大人って罵ってやって、そんで、こうやって大人しく首絞められてるなんてことも、なかったのに。



「 は が ね の 」

意識が堕ちる瞬間、そう切羽詰った大佐の声が届いて、俺は苦笑した。
表情に出てたかどうかなんてわかんないけど、多分出てたと思う。俺の首を絞めていた手が退いて、俺の体が浮いた。抱き上げられたんだろう。


ばっかだなあ。

そんな声出すくらいなら、俺なんかに構わなきゃいいのに。

こうでもしなきゃ、俺が止まらないの知ってるから、やってるんだろ?

あんたに直接、言ってやるのは悔しいから多分一生言わないけど

こうやって、俺が休まざるを得ない状況に置かれると、あんたのせいに出来るから、俺が気兼ねしなくていいとか、そんな余計なこと考えてるんだと思うけどさ。そりゃ、もう少し手加減しろよ、とか思わないでもないけど。

「君と他人でいるのは、もう嫌だな」

・・・・・・なにが?

ああ、だめだ。しこうが うまくまわ らなく  な って き    た 。

もう すこ し、うまく      や、れ   っての       むのう。


「他人でなければ、こんなことしなくても君を止める権利を得られるのか?
―――鋼の」






もう、俺には何も聞こえなくなっていた。







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