初。両思いっぽいロイエド。


ただその視線が痛かった。








「いや、なんと言うか」

苦笑を零すと“大人”は“子供”の、紙片で切れた指をそっと取った。

何が云いたいのかは、聡い子供はすぐに悟って悪態をついた。
「どうせドジだって言いたいんだろ」
「おや、よく分かっているじゃないか」

ポタリ。

それは、子供の求める石の色にもよく似た見事な赤。
珍しく、いつもしていた手袋を外せばすぐ『これ』だ。加減が分からずに小さな傷を負う。
それは子供にとって、何てことはないものだったが大人にとっては、穏やかな表情と違って内心穏やかではない。

とうとうその場にとどまりきれず、流れて溢れた血の末端は子供の服に落ちて染み込んだ。
ただ黒いそこに落ちたそれが目立つ事はない。

黒と相成ったその赤はどす黒い染みを作るのみで、目立つことは、決して。


大人はそっと、切れた指先を自分の口に含んで軽くその指を吸ったり食【は】んだりして弄んだ。

「・・・何、やってんの?」

くすぐったく感じるそれを必死で表情に出さないよう努める子供が尋ねた。
大人は笑って何も言わない。

暫くして、そっと指先が解放された。
大人は傍に置いてあった救具箱から包帯を取り出そうとして、そこまで重症じゃないか、と呟く。
子供に小さくそんなん見りゃ分かるじゃんと言われて大人は苦笑して、じゃぁこっちでいいねと、バンドエイトを取り出した。

そんなやり取りの間に、また止め処なく赤は流れていた。

大人はあーあ、とでも云いたそうな表情でそれを眺めていたが、暫くして驚いたように微かに目を見開いた。
「?傷なんて珍しいか?」

戦場でこれ以上ものもを見た事あるくせに、と。
子供に、暗に年不相応な皮肉を言われて大人ははっとして、元の状態に戻る。

「手厳しいな。・・・いや何、少し君には相応しくない事を、切に思った自分に驚いただけだよ」

多くの傷を負っていながらも、少しも損なわれないその白の肌。
純粋に程近いその混じりのない血の赤。

相反するその色二つは、彼が今まで見てきたどの赤よりも綺麗だと。

「何が?」

流れてまた零れそうになった赤をそっと、大人の舌が舐め取った。
鉄の味がして、大人は子供の生を喜んだ。
本人に言ってやるつもりはさらさらないが。

ただ今はこれだけ。

「そそる傷を作れるものだね 君は」




大人の切な表情に、一瞬心臓を鷲づかみにされた感覚に襲われたのは。

見上げる立場と見下ろす立場が変わった状態だから、変な感じに思うんだと、子供は自分に言い聞かせた。

それは子供の秘密。その子供を愛しく思ってしまったのは、大人の秘密――。



2/1記

ちょっとしたことに色を感じることは罪だろうか?





ロイ→エド?


どれだけのものか、試したかっただけだよ。







「君が一番に望むものを何でも君にあげよう」

その男はそう言って微笑い掛けてきた。それはいつもと変わりのないものだったのに、酷く少年の癪に障った。
もしかしたら、余裕ぶって見せられたのが腹立たしかっただけなのかもしれない。
自分にはないその余裕が羨ましくて、嫉ましかっただけなのかもしれない。だけれどそれを少年は何という感情か分からない。
ただ忌々しげに舌打ちしてその『男』を睨み上げた。

嫌いだ。大嫌いだ。

その余裕ぶった表情も。全てを射竦めるきつい黒曜石のような双眸の瞳の色も。有無を言わせない絶対的な声音も。
何もかも、大嫌いだ。
(全てが今までの『俺』を崩していく)

だから大嫌い。それが自分の本心でないと分かっているからこそ、大嫌いだ。
“大人”も、そして自分自身も。

少年は何一つ、彼の持ち得るものを得られない。得ることが出来ない。
焦燥に駆られて、そしてその全てを持ち得るその男を誰よりも尊敬すると共に、誰よりも嫉んでいた。
彼と自分が対等でいられるのは、同等の代価を払うことでのみ赦される神に最も近い術師という一つの接点を介してだけ。
それがなければただの大人と子供。その差は一生涯、彼に埋めることの出来ないものだ。

彼は、子供なのだから少しは甘えたまえと少年を諭す、から。

(知ってるか?)

(子供は無知で欲深い。自分の無い物ばかりを欲しがるんだ)

だったら俺が最も欲しいものを、俺に与えてみろよ?できるものならな。

少年は酷く大人びて、酷く純粋な笑みを浮かべて大人に応えた。
「じゃぁ、永久的に変わらない“愛”を頂戴?」

出来るものならやってみろ。やれるものならやってみろ。
不変のものなんざ、『絶対』と同じくらい有り得ない曖昧なものなのだから。
それが人の心になったら、それこそ夢のまた夢だ。それを、与えられるか?
答えは“否”。

だけど、それでいいんだ。
大人は大人でも子供の願いが叶えられないと知って、子供は大人にも叶えてもらえない願いがあると知る。
大人は子供の純粋を知って、自分の限界を知る。子供は純粋を失って、現実を知る。
そしていかに自分が無力で愚かしい存在か、実感する。それでも怖くて前に進めない奴なんてそこで止まっていたらいい。
だけど、俺は違う。
止まってなんていられない。振り向いてなんていられない。“俺達”の願いを叶えるまでは、決して―――――。

大人の驚いたような表情【カオ】を見て、子供は思う。こういうのも悪くないと。
喩え自虐行為と罵られてでも、背負わなければならない罪がある。自分達は云わば冤罪を乞う咎人だ。
気になんて掛けるな。甘えさせようとなんて思うな。俺は、俺達は一人でも歩ける。もし出来なくても、二人でなら歩いて行ける。

少年は罪の証の右腕をぎゅっと握り締めた。
服越しに感じる硬質なそれは、関節を少し動かすと軋みを上げた。
ヒトのものではないそれ。だが少年はそれよりも弟の咎だけでも退けたいと切に願うから。

自分のことでなんて、悲しむ暇はない。そして同時に赦されないことだ。
何かを望むことも、叶えようとすることも、おこがましい自分たちは。

それでも望む。全てを取り戻すために。


それまで黙っていた大人は、ふっと緩い笑みを零して少年に近寄った。
瞬間、びくりと強張り、少年は一歩後退さる。だけれど黒曜の双眸は、彼に拒否するのを赦さなかった。
酷く怯えるばかりの少年をそっと、壊れ物のように抱きすくめると、子供は肩を痙攣させた。
明らかな怯えの混じる態度が気に食わずに、大人はそっと、少年の右腕から手袋を取り去って、その冷たい甲に口付けた。
女性の柔肌を扱うようなそのゆるゆるとした動作は少年に羞恥を覚えさせた。狼狽して身を捻ろうとしたが、大人はそれを許さない。
「そんなもので良ければ私がいくらでも差し出そう」

「不変を信じられないのならば私がいくらでも誓う。私が死ぬまで君にどんな形の愛でも捧げよう」

恋人に誓う愛か、それとも家族に捧げる愛か、はたまた兄弟に与える愛か。

「それは君が望むままに、与えよう。少なくともそれで少しは君達が心安らげるのならば」

少年はどん、と大人を突き飛ばして、慌てて部屋を出て行った。
長い回廊を走る間、心音が煩くて、耳の傍に移って来たように錯覚した。
(違う 違う 違う)
その余裕ぶった表情も。全てを射竦めるきつい黒曜石のような双眸の瞳の色も。有無を言わせない絶対的な声音も。
何もかも、全て大嫌いだ。
自分は大嫌いなのだ。あの大人が、全て。


それは自分に言い聞かせているだけの、反対の事実とは自覚したくないと子供は首を横に振って無理に忘れようとしたけれど。
目の奥に焼き付いた黒曜の双眸と、射竦められた時の戦慄にも似た感覚だけは忘れられないのだと子供は愕然とした。

(違うよ、そんなの)

ただ、俺は。
(あんたの気持ちとやらがどれだけのものか、試したかっただけだよ。)

そう自分に言い聞かせたけれど、あの刹那に見せた大人の寂しそうな微笑を、果たして自分は忘れられるのかと少年は空を仰いだ―――。

2/14記

試したつもりで試される。







怖いもの。


閑話休題。





十人十色とはよく言われるもので、人は一人一人違うもので、勿論その価値観もそれぞれ異なる。
時には同じかもしれないけれど、時には全く違うこともある。それが、一個人という違いだ。


「少し思ったのだがね、君に怖いものなんてあるのかな?と」
唐突に切り出された話題に、エドワードは露骨に眉を顰めた。
「いきなり何云ってんの?アンタ」
その声音には、少なからず困惑の色が垣間見えていて、ロイはとりあえず自分の発言が空回りしていないことに安堵した。
「そのままの意味だよ。国家資格を取りに来ておいて、大総統に刃を向ける肝があれば怖いものなしだろうなとね」
「そういう大佐は怖いものあんの?」
「そりゃぁ私も人の子だからね。怖いものの一つや二つ」
「何?」

いきなり、少年の目が輝きだしたように見えたのは、恐らく彼の気のせいや錯覚ではないだろう。
先程まで、こちらの動きなんて、てんで興味ないと全身から訴えて黙々と持ち出し不可の重要文献を読み漁っていた筈なのに、こちらが怖いものはあると答えた途端に“これ”だ。
気持ちが分からないでもないが、それにしても些か落差の激しい行動にロイは呆れる。
それを単純に、子供っぽいと思われているとでも感じたか、エドワードは眉間に皺を寄せて言った。
「あんたが最初に聞いたんだろ。教えて欲しけりゃ等価交換」

つまり自分の弱みを暴露するんだからそちらも暴露しろとのこと。
内容によっては等価になるか分からないので多少無理もあるが、彼らしいといえばらしいと、ロイは思う。
「そうだな・・・とりあえず、書類の締め切り間際の中尉の神経を逆撫ですることかな」
「それ誰でも怖いって」
寡黙に、忠実に働く彼の有能なる部下は、怒らせた場合、多分東部の司令部では最強ではないかと謳われる。
そんな彼女をわざわざ怒らせる者といえば、彼くらいなものだろう。
そもそもエドワードに言わせて見れば、どうしてわざわざ仕上げる時間がある時にやらずに期限ぎりぎりまで書類を残す癖があるのかと、まず真っ先にロイの心理を追求したいところなのだ。彼なりに事情があるのかと思えば別にそんなことはないと断言される。
「そう思うんだったらもうちょっと仕事早く終わらせろよな」
「善処はしよう」

胡散臭い笑みを浮かべている辺り、絶対善処する気はないとエドワードは確信した。
だけどそれはまた追々追求するということで保留にした。彼的には早く二つ目の大佐の怖いものが知りたいのだ。
無言で促すとロイは肩を竦めて何ともなさげに答えた。
「あとは女性かな」
「は?」

全く予想していなかった答えに、エドワードは元々丸い目を更に丸くする。
「なんで?(マスタング)大佐=タラシって一般常識じゃないの?」

どこの一般常識だそれは、という言葉をなんとか飲み込んで、ロイはジト目でエドワードを睨んだ。
「君が外でどういう噂を聞いているかは知らんがね。・・・まぁ大体分かるが。だからといってその言い草はないだろう?」
「あっそ。本人が云うならそういうことにしとく。で、何で女の人が苦手な訳?」
どうでもよさそうに言い捨てた辺り、間違いなく『そういうことにしていない』と分かったがあえてつっこまずにロイは答えた。
「別に苦手ではないさ。むしろ好きでなければ付き合いなんて持とうとしないだろう?ただ・・・時々熱烈なお嬢さんも居てね。」
一度なんて既成事実を捏造されて危うく一児の父親にされかけたとあまりにもげんなり云うのでエドワードは笑いを堪えるのにえらく必死だった。
まだ笑わないだけでも表彰ものである。

「それを機会に行動自粛すりゃいいのにさ」
「常々言ってやっているだろう?女性の厚意は有難く受け取っておきなさいと」
「付き合う気ないなら期待持たせる態度取らなきゃいいだろーが」

エドワードは、多分一生掛かっても彼の精神構造を理解することは出来ないと確信した。
根本的にそれに対する考え方が違うのだ。一緒になりたいとも思わないが。
「それで、君は?」
そして、ここまで言ったのだからそろそろ良いだろうと今度は聞く側に回って尋ねるが、唐突に変わった話題に付いて行けなかったらしく、エドワードは一瞬きょとんとなった。
だがすぐには理解して、少し思案した後答えた。
「・・・あー、まぁ一番はやっぱ死かな」
「成る程」

若干15歳にして、人の生死・・・とりわけ、死の方を、彼は痛いくらいに理解している。
実際、母どころか弟すらも失いかけた彼の恐怖なんて、想像もつかない、つけられない。
今でこそ、重い過去を匂わせない気丈な振る舞いを見せるものの、ふとした拍子に垣間見る横顔に在る憂いは、彼のその年齢を思わせない程に大人びている。
誰にとっても恐ろしい死という別離だが、彼にとってはむしろ自分の死よりも、他人の死の方を主に指しているのだと分かった。
だから、彼の言葉にも頷けるものがある。
その辺は、自分には触れてはいけない領域だと判断してロイはコメントを控えることにした。そして尋ねる。
「他には?」
「・・・・・・・・・・・・・・・師匠」
「・・・は?」

もしこの場にアルフォンスが居合わせていたら、間違いなく兄と一緒に震え上がっていただろうが、生憎彼は現在図書館に缶詰であるし、それを知っているのもこの場ではエドワード本人のみだった。
そんな訳で、ロイには意味が分からない。錬金術の師匠だという事は分かるが、じゃぁ何故師弟関係にあるその人を怖がる必要があるのか。
「・・・そんなにその人は君が怖がるほど凶暴なのか?じゃぁ男性?」
「いや、女の人。ちなみに相当病弱」
「ならば君が怖がっている理由が判りかねるのだがね」
「だって師匠最強だもん」

益々意味が分からなくなる彼らの師匠の人物像にロイは少し頭を悩ませた。病弱なのに最強とは如何なものか。
あまり詳しくを語ろうとしないエドワードに、自然とロイも閉口してしまった。
仕方なく、とりあえず一番聞きたい所だけ聞くことにした。
「嫌いなのか?」
「まさか!」
今度は即答で返ってくる答えを、ロイは意外に思った。
「師匠のことは好きだよ!だけど・・・・・えっと・・・・」
「いい。怖いけれど好きだと言いたいのだろう?」
こくりと正直に頷くエドワードに微笑ましさを感じた。
そして、彼に掛け値なしで好かれているらしい人物に少しだけ、羨望を感じてみたりして。
・・・まぁあえてどんな人物なのか想像するのは混乱するのでこの際置いておくとして。
「・・・・あ」
唐突に思い出したことに対して思わず声が出たロイは、子供の不思議そうな視線とぶつかった。
「何?」
「・・・いや、何。私にはもう一つ怖いものがあったなぁと思い出してね」
「へ?まだあんの?」

「ああ、あるさ」

その時の彼の表情が酷く自嘲じみて見えたのは、果たしてエドワードの目の錯覚か。
「他では聡いくせに中々私の本心を察してくれない天然ボケの子」

それが誰を指すのか分からない限り、ロイの自嘲が収まることはないのだと。
子供が気付けるのはいつになるのだろう?

ただきょとんと何のことか分からずに自分を見上げる子供をロイは少しじれったく思った。

2/15記

ねえ気付いてと言ってはいけない。









俺は二度と、大切なものを失いたくないんだ

だから俺は、拒み続ける。





それは酷く不明瞭な言葉だと、少年は深く息を吐き出した。



「好きだよ、エドワード」

狡賢い大人はそうやって、子供に微笑みかけた。
何の脈絡もない、本当に唐突な言葉に一瞬、エドワードは目を瞬く。

意味が完全に浸透するまで、たっぷり時計の長い針が8回は動いただろうか。
半ば不思議に思いながら、エドワードは山積にされていた本の山のてっぺんに置かれた生体練成の書物を手に取った。
ぱらり、と書物の冒頭部分をめくって軽く読み通す素振りを見せた後、エドワードは本に目を通したまま尋ねた。
「それって『LIKE』?『LOVE』?」

何、ふざけてるんだと返って来るだろうと予想していたロイは、意外な答えに一瞬だけ表情に驚きを浮かべる。
戯言と思われ、切り捨てられると思っていたのに、この子供は一応真剣に受け止めようとするのだ。
「冗談だ」の一言で終わらせる筈だったのに、どうやら自分は思っていたよりもずっと、声音に真剣味を帯びさせて尋ねていたらしい。
人の心の変化に人一倍敏感な少年は、奇しくもそれを何となくで悟ってしまったようなのだ。

だが、ロイは少年の問い掛けに答えるつもりは、最初から無かったのだ。
(一生、誰にも話すつもりはなかったのだが)

相手が本人ならば殊更、迂闊に喋る気にはなれない。なってはいけない。
勿論、冗談めかして答える事も可能だったろうが、エドワードは、こちらの言葉を真摯に受け取ろうとしてくれている。
そんな彼におどけて答えるのは失礼だと思った。だからこそ、余計に本心を悟られる真似はしたくなかった。
だから、どうそれを誤魔化そうかと考えあぐねいていると、痺れを切らしたらしい少年は盛大な溜息を吐き出して、
「返答に詰まるなら最初から言うな」と、文章に没頭し始める。
ロイはタイミングを逃した・・・いや、わざと逃させてくれた聡い子供に苦笑を浮かべた。

(それは、答えてやれないさ。・・・喩え言う事が出来たとしても、時期じゃない)

もしこれを、言葉として彼に投げかければどんな反応が返ってくるだろう。
きっと、蔑みこそしなくても、「我侭な大人」と呆れるだろう。

そして――苦笑しながらも、受け入れてくれるだろうか。



没頭し始めた彼には、周りの声は雑音にしか聞こえなくなるのは、彼と上司と部下の関係を始めてすぐの3年前には知っていた。
そしてその時の彼にしつこく話し掛けるとどうなるかも、重々。

分かっていたからこそ、言いたくなってしまったのだろうか。
いやはや、我侭で天邪鬼なのも考え物だとロイは微笑みを浮かべた。

「君を独占してしまいたいと考えるのは、傲慢と嘲われるかな?」


エドワードに反応は見られない。かさりとページを繰る音だけが、嫌に静寂を保つ室内に酷く響いて聞こえた。
自ら言ったにも関わらず、彼が聞いていなくて良かったと、半ば安堵する自分に気付いて臆病な自分が滑稽に思えた。
ポーカーフェイスは勿論のことだ。社交辞令と割り切って、上からの激励も軽く流してやって。

無理に振舞わずとも、彼は受け入れてくれる事をロイは知っていた。
数少ない自分の理解者の一人の少年に、自分は少しばかり肩を入れ過ぎたと、苦笑で呟くと黒髪を乱暴に掻き回して、ロイは大人しく机に戻って、何事もなかったかのようにペンを手に取る。
静寂に、静かに刻まれるペンの音。時折繰られるページの音。

それだけが反響していた。

ロイは既に、自分の職務に集中力を費やしている。
だから。

(陽に当たる場所で良かった)

耳まで赤くなったことに、彼は気付かなかったようだという事に、エドワードは心底安心して本を閉じた。

(どうして、そんなこと言いやがるんだよ、馬鹿大佐)



ただ前に進むには邪魔な感情であるそれは、形状が不明瞭な『愛』。
それが慕情を象るか、敬意を象るか、はたまた憎悪に転じるか。
知る事は必要ではない。少なくとも、前へ進むと決めた自分たちには。彼には――――。

(愛を感じているとすれば、それは俺にとって、アルだけなんだ)

頑なとさえ言える愛情は、他の誰かに気を掛ける事を拒み続ける。恐らくこれからもそうだ。

だから。




(俺はあんたなんか、大嫌いだ)



塗り固めた偽りの意思を、エドワードは胸の底が熱くなるのを感じながら今日も纏うのだった。



2/28記

大切なものを作りたくないと思う時点で落ちていることには気付かない。(気付けない)









らしくもないその姿が妙に、苛つく。


どうしてか、目を逸らせなかったんだ。





「何やってんの、アンタ」

そのまま、無視をする訳にもいかず、エドワードは持っていた予備の傘を開き、“その人”に差し掛けた。
二つ名に、『焔』を持つその大人は、自嘲のような笑みを浮かべて、少年に肩越しで振り向いた。
「水も滴るいい男だろう?」
「寝言は寝て言え」
あくまでしれっと返す少年に、大人は「相変わらずつれないね」と苦笑を浮かべて見せた。
エドワードは内心だけで安堵の溜息を吐いた。らしくなく、自嘲なんぞを浮かべる、
いつも余裕ぶって見せる上司の落ち込んだ姿は出来れば見たくなかった。
何があったか詮索しようとも思わないものの、その普段との激しいギャップにエドワードは少なからず困惑を見せていた。
「どうしてこんなトコに?」

今度は返事が返って来なかった。
ただ億劫そうに、水気の所為で貼り付いた前髪を掻き揚げると、緩慢な動きで、傘を差し掛けるエドワードの右手を包み込んだ。
驚いて、反射的に身を捻らせたエドワードだったが、それすらもこの大人の前には無駄な足掻きとなった。
「雨の日は錬金術、使えないんだろ?無防備に道端に突っ立ってていいのか?『大佐殿』?」

悔しくなって、言葉だけ悪態をつくが、ロイは静かに首を横に振ると、余った右の手の人差し指を口元に持って行った。
「時には、大人だって黄昏てみたい時もあるのだよ」
声音が疲弊しきっていて、エドワードは僅かに眉を顰めて尋ねた。
「何で?女の人にフラれたの?」
「残念ながら、本命には随分前からフラれ続けているよ」
ロイが答えると、子供はどうでも良さそうに相槌を打った。
「こんな時間に、こんな所居てもいい訳?」

大体、中尉は?雨の中でわざわざ何で突っ立ってんだ?あんたに命の危機とかはないのか?恨みいっぱい買ってんだろ?
矢継ぎ早に問いかけようとするエドワードに、ロイは少し困ったように笑んで見せ、そして同時に人差し指を、彼の口に押し当てた。
「質問し過ぎだ、君は」

黙っていろと言外に伝えられて、エドワードは大人しく従った。
普段の、人の食えない態度で言われたら、反発しただろう。だけれど、出来なかった。

それが静かに、悲しげに揺れているのに気付いたからだ。
「あんまり煩くしていると、口を塞いでしまうよ?」

そう言って、ロイはエドワードに押し当てていた指先を、今度はまた、自分の口元に寄せる。
聡明な少年は、それだけでそれが何を意味するか理解したようで、顔を真っ赤にさせると、ロイに捕われたままだった右の手を奪還して左手でそれを包み込んだ。

威嚇するように、毛を逆立てて言うそれはまさに猫の仔と形容するに相応しい反応だとロイは思った。

いつもは皮肉の一つや二つ、ぽんぽんと出てくるくせに、いざこういう時には何も言えなくなってしまう。
その様は端から見れば随分滑稽なものに見えただろうとエドワードは他人事のように心の中で呟いた。
どちらにしても、これは全部大佐の所為だ。

こんなにこちらの調子が狂ってしまうのも。雨が降っているのに、気にならないのも。
これから、アルフォンスを迎えに行かなくてはならないのに、気になって動けないのも、全部。
「俺をっ・・・腹癒せに使うな!」

忌々しそうに舌打ちして、エドワードは傘を彼の手に無理やり握らせ、背を向けた。
「鋼の?」
「・・・・・見てたく、ない」
「?」
「あんたがそんなだと、俺も調子崩れちまうから・・・明日までには元に戻っとけ!」

ぼんやりと、彼を見つめる彼の目はやはりどこか、覇気が感じられなかった。それが、違和感。
エドワードにとっての、ロイ・マスタングという上司は、皮肉なくらいの自信家で、無謀な野望を抱いていて。
だから、あんな彼は、彼じゃないと、錯覚を起こしてしまうのに、それは紛れもない彼であって。

焔の消えた彼を見ていると、昔の自分を思い出すから。
(ムカつくけど・・・・早く元に戻りやがれ、馬鹿大佐)

傘一本じゃ、アル迎えに行っても意味ねぇじゃん、と毒づくエドワードの呟きは、雨音に紛れて誰の耳にも入らなかった。


取り残された大人は、彼の背中が見えなくなるまでじっと見つめていたが、やがて小さく笑う。
自嘲のそれではなく、ただ単に心底可笑しそうに、だ。
「これだけ濡れていれば、傘なんて無意味だろう」
少年の珍しい好意が嬉しくて、思わず付き返す事を忘れてしまっていたけれど。



「君の所為で、感傷したい気分なんて吹き飛んでしまったよ」


そう、大人は可笑しそうに笑った。


2/29記

少年の存在が、彼の安定剤になればいい。