今朝から視界がぼんやりとしていることには気付いていた。

けれど、どうもそれを誰かに気取られるのが嫌で、いつものように行動していたら、真っ先に気付かれたのは意外にも、2日ぶりに顔を合わせた主人だった。

ここ数日、互いに忙殺されてまともに顔すら合わせていなかった相手と、よりにもよってこんなときに会わないでいいだろうに、と思いながらも腕を掴まれたのをきっかけに体が急に重く感じて、重心を失う。

意識が暗転する直前に、主人の慌てたような自分を呼ぶ声を聞いた気がしたが、それをかごめは“まさか”と思っていた。


だって、あの主人は4年間の間、一度だって“私”を見てくれなかった。


















足りない言霊



















「今は会わせません」
かごめの部屋へ入ろうとした“彼”へ告げられた一言は何とも簡潔なものだった。
「会えない」ではなく「会わせない」ときっぱり答えた従者の一人である少女の、
やけに肝の据わった発言に“犬夜叉”はひきつった笑いを浮かべた。

何でだ、などと訊いてはいけない。
この少女は恐らくある意味、部屋の中の少女以上に自分に物言いできる珍しい従者なのだ。
何の臆面もなく、こちらの非をあてつけてくるだろう。
何よりも自分がそう弱くなる非を見せたことがそもそもの敗因だ。
「・・・・・・アイツは、俺の側近だから」
「だから、何?」
「・・・・・・体調管理のことについて、ちょっと・・・」
「病人に説教するつもり?だったら尚更通せません」
取り付く島も無いといった風の少女に犬夜叉はがくりと肩を落とした。
確かに今の言い方は自分でも分かるほどにまずかった。
「それに主上、仕事は?」
などと言い出されてしまえば言い返す言葉も思い浮かばない。
確かに、やるべきことを放り出してここへ来てしまったのは十分に自覚があるので強くも言い返せない。
主人の命令、という名の強制排除も出来ないではないが、それをしてしまうと今後一切のこの少女の信頼を失いかねない。
それは、この少女の有能さと、常に一緒にいる、今『風邪』ということで寝込んでいる少女との接触回数が大幅に減る恐れのある行為だ。出来れば避けたかった。

はあ、と溜息をつく。
格好がつかないから、などと格好をつけている場合ではないのだ。


「・・・・・・暫く、顔見てないんだ。顔色見たらすぐ出て行くから」
「・・・・・・・・・・・・」


そういうと、一瞬だけ、少女の眉がひそまり、やがて扉の前から退いた。
元々、意見こそしても反抗するつもりは少女にはないのだ。

「・・・・それ、あたしじゃなくてかごめちゃんに言ってあげてくれます?」
「今更、言ったって」
無駄だろ、と言いかけて、余計なことまで喋ったとばかりに口を噤むと犬夜叉はそっと、
少しだけ開けた扉からするりと体を滑り込ませた。

窓の傍に置かれた、他の従者たちよりは質のいいベッドの上で、
かごめは少し熱のある頬をさせて浅い呼吸を繰り返していた。
額に置かれた布に触れると熱を吸ってすっかり温かくなっていた。
それほどひどい熱ではないからと、扉の前の少女だけがつきっきりでいた部屋の中は、
それでも持ち主と同じように静かにしていた。

かごめは、元々体力のある少女だった。
だから、ここまで弱ったのも“例の”ことの後だけだった。

少女を、命令と言う名の鎖で縛って衝動のままに初めて蹂躙した、あと以来。

それを思い返して、犬夜叉はきゅっと唇をかみしめる。
己のしたことだ。忘れるものか。
少女は拒んでいなくても、あれは明らかなこちらからの強制。
何も知らない少女が、今まで無邪気に向けられていた笑顔を、自ら消してしまったあの日。

少女に誤解されているのは知っている。想いも伝えずに無理やりしてしまった事実は同じだと、
訂正しないでいるのも自分だ。“御託ばかり並べて、本心を聞こうとしない”。

きっと怖いのだろう。
命令だから自分の言うことを聞いている少女に、命令ではなく、
本当に自分のことをどう思っているかを聞くのが、きっと、死ぬことよりも。

「・・・・・ん」
水桶の上で絞った、冷えた布を額に置きなおして犬夜叉はベッドサイドに腰掛けると、
少女の頬に貼りついた髪をなおしてやる。
かごめが身じろぎしたことで、犬夜叉も一瞬、目が覚める前に出て行こうとしたが、逡巡する間もなく目が開かれた。上気して普段より少し潤んだ、紫がかった目が犬夜叉を見据えて、その一瞬あとに、かごめはふや、と笑った。

久しぶりに、自分に向けられた笑顔に、犬夜叉は本気で動揺した。

そしてそのあとに、少しだけ胸が痛んだ。
この笑顔がもう、自分に向けられることはありえないのだ。
だとしたら、自分のことを“誰か”と間違えているのだろう。自分を通して、少女は誰を見ているのだろう、と。
妬むことすら赦されないことを少女に強いてきたくせに、こんなときばかり独占欲の出てくる自分に反吐が出た。
しかし。

「主人【マスター】・・・・」

―――――





本当に、驚いたのだ。自分の名が呼ばれた、そのことに。
彼女は自分を通して誰かを見ていた訳でもなく、自分のことをちゃんと見て、笑いかけたのだ。
恐らくそれは昔の自分に対して笑いかけることと同じくらい自然なつもりで。

(俺は、これを)

失ってしまったのか、と思うと、普段は滲みもしない目頭が熱くなる。
我慢するように無理やり眉根に皺を寄せた。
いくら少女の意識が朦朧とした状態であっても、これ以上の醜態は見せたくなかったのだ。

「・・・・かごめ」
ふわりと指の腹で、少女の頬を撫でるとくすぐったそうにかごめは目を細めた。


意識が朦朧としている今、かごめの中は“あの頃”に戻っているのだとしたら、
せめて今くらいはその頃の自分を演じてやろうと。
それは誰でもない、自分が一番望んでいるくせに、誰にとも無く言い訳しながら、笑みを作って見せた。
頬を撫でる犬夜叉の手にかごめの手がそっと触れた。

「・・・・まだ、しんどいだろ、眠ってろ。」
「ん、・・・・・・主人」
「ん?」
「おやすみなさい」
「・・・・・おやすみ」

とんだ詐欺師にでもなった気分だった。
こつん、と扉の表からのノックで、退出しろと言われているのだろうと察して犬夜叉は腰を上げた。
ひと段落ついているからとはいえ、やるべきことは未だ山積みなのだ。
「邪魔した」
扉の横で待機していた少女にそう言ってさっさと踵を返しながらも、
離してしまったかごめが触れた手のぬくもりを思い出していた。
触れ合うことなんて、今までいくらでもある。
触れ合うどころではない、深く交わったことだって何度もあるのに。
少女に触れたのがとても久々な気がして、じわりと何かが胸内を浸透していくようだった。

あの頃の幸せを噛み締める度に、今の触れ合えない心の距離を悲しく思った。
たとえそれが自分のせいだとしても、悔やまずにはいられない。

それでも欲しいと思った少女をもう、玩具のように抱くことしか、
少女をほんのひとときだけでも手に入れられる方法として、彼に残されていないから。








「・・・・ねえ、珊瑚ちゃん」
「ん?」
「さっきね、夢、見たの」
「へえ、どんな?」
「・・・・とてもしあわせなゆめ。しあわせだったころのゆめ」



でも、もうきっと手は届かないの、と苦しそうに笑う少女の手のひらには、
“誰か”の手の感触だけがそっと残されていた。







 * * * 

(初出 ・・・不明? 08.02.28 UP)

痛いよこの二人!!(泣)見事にすれ違い。
戻れない道に踏み込んで、戻ることは叶わず、進むしかないのに、進む先に光なんて見当たらないから光のあった過去ばかりを悔やんで進めない二人、がテーマ。

時間軸は犬に拾われ、4年後くらい。1年前に例のあれ(何)があって、
今までにも何回かそーゆー関係になってる感じ。姫は、犬は自分を“誰か”の代わりに抱いてるんだと思ってる。